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森之宮神社が元四天王寺であるように、長柄豊崎宮は元難波宮かも




写真は、前期難波宮、模型。Wikiより。

さて、話は四天王寺にさかのぼります。

587年物部守屋が滅ぼされ、翌年、飛鳥では飛鳥寺の工事が始まります。

ところが、四天王寺の着工は、593年です。それまで、守屋の邸宅であった、守屋の宮=森ノ宮に仮の四天王寺が置かれた。

四天王寺が森ノ宮から、現在地に移転したのはなぜか、と長年議論されています。

亀井水の調査を始めて、すぐに答がわかりました。地下水道をともなう、最先端の技術を要する基礎工事に、五年かかったのです。

学者たちは、亀井水は視野にさえはいりませんでした。水まわりをおろそかにして、四天王寺の斬新さを理解できなかったのです。

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さて、前期難波宮が、なぜ、難波長柄豊崎宮、と呼ばれるのか。

日本書紀にそう書いてあるから、です。

本当に書いてあるのか、目を皿にして読み直しました。

クーデターが、645年6月。7月、大化元年とあらため、12月都を難波長柄豊崎に遷す。

ここで、ちょっとまって。半年では、上町台地の複雑な地形の、整地も終わっていないのではないか。

孝徳天皇は、難波のあちこちに、仮の宮殿をつくり移動する。

650年、年号を白雉と改める。白いキジが献上されたためである。白い雀!も目撃される。

白雉二年、皇祖母尊つまり退位させられた皇極天皇は、丈六の刺繍仏の完成を祝い法要をおこなう。皇極前天皇はそれなりに活動している。

その十二月、孝徳天皇は、

遷りて新宮におわす、なずけて難波長柄豊崎宮という。

遷都を決めてから、六年。定説では、これが、

前期難波宮の完成とみなす。

しかし、翌年白雉三年九月、

宮造ること已におわりぬ。その宮殿のかたち、ことごとにいうべからず。

ここには、新宮の名前はない。

白雉四年、孝徳天皇ひとり残して、みんな飛鳥に帰ってしまう。皇后までが裏切る。

翌年、孝徳天皇は病にふせる。飛鳥に帰った面々は、病気見舞いに、難波宮におもむく。

ここでは、難波長柄豊崎宮ではなく、難波宮である。名前が変わっている。

孝徳天皇はそのまま亡くなる。病気見舞いというより、死をみとどけるため難波宮に集まったのである。

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つまり、白雉二年651年完成したのが難波長柄豊崎宮であり。

白雉三年完成した壮麗な宮が難波宮である。

どう解釈するか。

大阪市立歴史博物館10階より
眺望する難波宮


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