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昔の権威ある学者が四天王寺と聖徳太子は関係ないと推理した。戦後の発見を踏まえ、目の前の亀井水を見て、知識を新たにする。+写真集

科学は仮説に基づく厳密な論理である。

という説明を見て、仮説やからなんでもありか、と早とちりする人がいます。

仮説とは何でもありという意味ではありません。

資料や遺物をいかに説明するか、様々試行錯誤して、最も合理的な前提を仮説として明瞭にするのです。

しかし、仮説であるから、絶対ではない。

まず資料や遺物などがあります。その量も解釈も変わります。そこでまた仮説を再検証する。


聖徳太子はいなかった論は、四天王寺の戦前の誤った定説を、検証なしでひきあいに出します。それは、四天王寺は聖徳太子が創建したというのは四天王寺の嘘である、難波の渡来豪族の私寺である。

さらに、聖徳太子の時代に四天王信仰はなかったはずだ、とも。いや、推古天皇御物玉虫厨子に須弥山が描かれているのだから、須弥山におられる四天王の知識はあったはずでしょう。


戦後、法隆寺で若草伽藍の遺跡が発見されました。四天王寺と同じ設計の伽藍でした。また、同じ瓦が使われたこともわかりました。

四天王寺と若草伽藍は、同じ人物により、同時に建立された。

そんな大事業を計画し指揮した人物がいたことは、まちがいないでしょう。


そして、四天王寺の亀井水は、ものの見事に無視誤解されてきた。

金堂真下の井戸から亀井水は導かれる。ならば水道工事がなされたはず。それは基礎工事のときに完成しておかねば、伽藍建立はできない。

その未調査の水道と亀井水は、四天王寺の建立の信仰の基本であるのではないか。


亀井水から四天王寺の構造を見直すと、その信仰の構造が理解できます。

そんな構造を考えた人物がいた。

つまり、聖徳太子はいたのです。


お堂を簡略に描き、中の2つの石槽を描くことを重視した、貴重な作例


橿原考古学研究所が資料として撮影。
経木のお流しをしているのは南
橿原考古学研究所も下の水盤が主役の亀であることは認識されていなかった


亀形水盤


ペーパークラフトで水鏡として
遠近法で設計された
本来の姿を再現




近年はない雪景色


亀形水盤のしっぽ
流れ出す水を集中させる整流器でもある


亀井堂は暗い
灯明を映す水鏡の神秘


コラージュ
左上、亀井堂裏の石垣は飛鳥時代の工法をのこす


四天王寺中心伽藍

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