風土記編纂と国名表記、やまと倭(イ)から大和へ
見出し写真は、和歌山風土記の丘。
和歌山市にはイタケルを祀る、伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)がある。
和銅6年(713年)、元明天皇は諸国の国司に地誌編纂の勅令を発します。
後に、風土記とよばれるこの大プロジェクトの筆頭におかれた命令は
国名を良き字二文字に改めよ
というものでした。
都のあるやまとの国は、それまで、倭(イ)1文字でヤマトと読ませていました。それを、大和、という表記に改めます。
泉を和泉としたのも、和、という字が特別の良き字であったためでしょう。
倭→和、と変換されたのだから、倭も、わ、と読むにちがいないと、日本人は思い込んできました。
元の発音は関係なく、ヤマト、と読ませてきたのだから、倭がワである証拠にはなりません。
古事記はヤマトの表記は、倭。
日本書紀はヤマトの表記は、日本。
ヤマトタケルは初代タケルではありません。
クマソタケルを殺害したとき、クマソタケルは、お前はヤマトタケルと名のれ、と言いのこします。
他にも、イズモタケルもいました。
では神話上の初代タケルは誰でしょう。
スサノオの息子、イタケルです。
日本を植林し、豊かな緑なす国にした大事業を成したと語られます。
国名+タケル、という法則から、我が国は、イの国であったことになります。
倭をイと読むのではないか、という説は、岩波文庫の魏志倭人伝他の編集解説で、石原通博先生が中国文献の専門家として提起されています。岩波文庫版の解説を、ほとんどの学者は無視してきた。変な話です。
ヤマトの表記は当然、最高の良き字でなければなりません。
そこで、和、が選ばれた。
和が最高の字である根拠は、言うまでもなく、聖徳太子の十七条憲法でしょう。
わが国は、和の国である。
ここに、日本国の国家理念が明示されます。
今日まで、和、は日本文化全般の通称として愛用されています。
和の国の人になりましょう。
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