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学問の無力・ホッブスの孤独


リヴァイアサン扉絵

聖徳太子十七条憲法は近代憲法のさきがけ

無数の人間の意思の集合体として、リバイアサンというべき怪物として、国家はうまれる。ホッブスの『リヴァイアサン』は人間洞察と科学的論理で、国家の成り立ちを解明しようとした、近代社会科学の古典。

十七条憲法も、国家公務員のありかたを客観的人間洞察に明晰に求めた、科学的名著といえる。中国の大国から、国家としての資格があたえられる、というアジア世界の常識にたいして、飛鳥王権は自らの体験と思索で語る国家のなんたるかを、隋への親書にしたためる。日いずる国、と。

(さて、小野妹子が告げた我が国王の名前、アメタラシヒコオオキミ、が時の国王個人の名前と、歴史学では混乱してきた。

いまも、天皇は今上天皇と呼ばれ、個人名では呼ばれない。とすると、アメタラシヒコオオキミ、は個人名ではなく、天皇を天皇たらしめている、天皇霊位のことではないか。)


技術は進歩する。都市は変貌する。

しかし、人間は、暴力をかかえて生まれ続ける。そこに、世代を越えてつらなる歴史が可能になるのは、平和という絆があるからだ。

聖徳太子は話し合いという。

ホッブスは社会契約だという。

いかに、暴力を制御するか。いかに、自覚して人生を歴史に位置付けるか。

ホッブスの孤独

ホッブスは、人間は自然のままでは互いになにをするかわからない脅威だと考えた。

そのご、近代史は、人間の理性の至高を信じながら、結局より残虐な殺戮を繰り返してきた。

ホッブスは、社会契約としての理性ある権力の可能性を探求し、迷い続けた。

人間は、自分を完全に制御することは、不可能である。

まして、生命の根幹を、定かな見通しなく組み換える、遺伝子組み換え。

これから何が生み出されて行くのか、科学自体に自己制御はない。

理性が理性を破壊するにいたる。

ホッブスの深い恐怖に回帰すべき時であるか?

価値の源泉と学問の無力


雀が生きていることだって、価値を生み出している。価値として、計算できないけど。

労働が価値を生み出すという。ならば、マルチ商法の会社で働いている人の労働も、価値をうみだしている。

書類を隠蔽したり偽造したりする役人の仕事も価値を生み出している。

金や権力になる仕事が労働で、金にならない仕事は労働じゃない。

ホッブスが自嘲的に書いていたけど、学問はたいした力を持たない。未知のことは、価値があるかどうか、わからないから。

計算できないものには価値がない。役に立たない研究には金は出さんと、政治家が言い出した。

人間は、いつの時代も、ゆがんでいる。

あきらめて、とにかく生きていよう。

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