思ったより海外での「基準」の消失が深刻な件について。宗教、アイデンティティの喪失と日本人。

何が正しいのか誰も基準を設定できない時代の到来


ヨーロッパにいた時にあったディスカッションイベントに参加した時の話。色々な世代が集まって社会的、哲学的問題についてカジュアルに話しあっていた。
その中で「子ども達には何が正しいと教えるべきか?」という話があった。
あるラテン系女性は教育を今より緩くすべきだと意見を出した。現在の教育は植民地的な親による抑圧が強い、だから子どもは放任主義で彼ら自身に任せた方がいいのだと。

それに対してそもそも「正しいこととは何か?」という議論になった。

「正しいかどうか、それは自分自身を知ることである」
と、中年のヨーロッパ(西)出身男性は言う。
自分と向き合い、時間をかけて探索する。その自分という定義はその時々によって変わる。変わっていいものである。

しかし時代は変わった。今や時間さえあればスマホを見てしまい、対外的な基準に自らを晒す人がほとんどである。

「脳ではなく心が良いと思う事をすればいい」
とさらに彼は言ったが、そうすると例えば暴飲暴食による深刻な肥満やあらゆる生活習慣病やさまざまな依存症に対してもGOサインを出してしまいかねないと議論は発展していく。
そこで私は懸念が現実であることを悟る。

つまり誰も何が正しいか判断できないのである。

その責任を負うことができない。個人に対しては荷が重すぎることになっている。何かしらの基準が必要なのではと考えているけれど何を提唱すべきか分からない人半分、個人の好きなようにやれば良いんじゃないという人半分という印象だった。

海外では無神論者が日本とは違う意味を持つ

ヨーロッパを旅して思ったのだが、本当に「何をしたらいいか分からない」若年層の若者が増えているのだと思った。
東欧のある国で出会った二十代の男性は、ドラッグの入手が簡単になり、救急室に運ばれてくるティーネイジャーの数が数年前のそれとは比較して体感で三倍になったという。ドラッグの特にOD(オーバードーズ・過多)問題は根強い問題ではあるが、こちらが公式の統計である。
EUの国によってはおよそ横ばい、国によっては上昇傾向である。例えばベルリンなどの現状を鑑みれば(ベルリンはドイツではない、と多くのドイツ国民は言う。最近ではもっぱらサイケデリックパーティと言えばベルリンである)ドイツでの死亡ケースの増加も頷ける。

https://www.emcdda.europa.eu/publications/european-drug-report/2023/drug-induced-deaths_en

僕が会った東欧の青年は続けて言った。薬物使用者、それは彼の知る限り特に無神論者に多いのだと。
僕はその時なぜだかずっと腑に落ちないことがあった事を思い出した。
それは幸せと人生満足度に関するグローバルデータで、宗教を信じている人の方がより幸せで、

また平均寿命も3.8年から6年(これはデータ取得対象によって振れ幅があるが、平均して約5年と見て良い)長いと言う事実だ。

私がこれに対して驚いたのは、おそらく自分そして生まれ育った土壌(日本)が基本的に無神論に近いからだ。
もちろん厳密には無神論者(Athiest)の定義と日本人は異なる。日本には八百万の神や土着信仰、自然災害への恐れを元にしたアニミズムがベースにあり、その上に仏教、そしてキリスト教など外から来た宗教へのほのかな容認や興味もある。
また地下鉄サリン事件などのトラウマや近年の宗教に関する事件報道により、圧倒的な宗教嫌悪感・忌避感が多くの人の根底にある。

主に仏教や他以外、宗教は基本的に触ったらあかんやつやねと認識している人が多いのではないだろうか。
日本人の行動原則とは触らぬ神に祟りなしだからである。


日本人の宗教観に関してはもう少し詳しく次項で述べたい。
ここで特筆すべきなのは、日本人の宗教観は世界から見てもとても特殊だと言う事である。
一神教や二元論でないからこそそこには複数の精神的支柱がある。

もちろんこれは全ての日本人に当てはまるわけではない。だが多くの日本人はどこか思い当たる節があるのではないだろうか。

今思い返すと東欧の青年の言葉の裏にはこういう意味が読み取れるのではないか。

今(欧米・欧州の)多くの若者には基準がない。内からも外からも欲望を制御する声がない。
元々あった精神的・社会的支柱の大きな一つ、宗教が抜けた穴を埋めるものが見つかっていない。

日本人


これは私の(一人称が定まらないのが申し訳ないが)私的な日本人への見解であるが、私は現代日本人は法と規則で出来ている、と表すことが多い。あとアニメ。アニメは確実に宗教。国教とすら言っていい。

人によってはVtuberも宗教らしい。それはそうなんでしょうね。
これは無神論国家だから(無神論国家って言っちゃった、単純化です)言えることなのだがもっと俯瞰してみると世の中大体のことは宗教のカテゴリーに入るんです。
もっとカジュアルにあれ宗教だよね、これ宗教だよねと言っていい。
お金や国家など、人が強く信じるからこそ存在するものは全部体系的には一緒。教典もまあある。
頭の中に存在する、だから一神教は経典や教典を用意して信者に忘れられないように全力を尽くして定期的な読み返しを半ば義務化する。
それをしないと人は忘れるものだから。

日本人は精神的な支柱があると言った。でもそれも少しずつ前時代的なものとなり、一般的な近代日本人に残されたの精神的支柱はアニメ(やったね!)などの娯楽、家族や友人とのつながり(地域コミュニティはあまりもう強くない)、そして仕事である。

肉体的精神的限界を超えて奉仕するのはそれはもう宗教なんよ。

一部会社では朝礼で社訓を声に出して一緒に呼んだりお辞儀の仕方を練習したりする。こう言う一緒に同じ言葉を読んだり独特のルールを実践するのもまあ、はい。

だから日本人には前時代より受け継いだ精神的奥深さはある、また社会的な規範や恥の文化が強く残っているのでそう簡単に破滅的な社会的行動を起こしにくい。でも、幸福か?と問われると、
そうではない。
と言う人が多い。

じゃあ何が幸せか?と言うことについて一緒に模索するんだよ…と言うのがこのNoteの趣旨です。

世界中巡って思ったかなり個人的な見解も書きます。でも自己啓発とかにはならないかもしれない。
ちなみにここに貼るために漫画「ピンポン」のアクマの画像をネットで探したけどなかった。(漫画は持っている)

「どこを歩ったら褒めてくれんだよ! どこ見てあるきゃーよぉ!」

(台詞うろ覚え)

と言うセリフです。僕は重度の漫画人間なので結構漫画やアニメから引用するから許して。

知らない人のための「ピンポン」


『ピンポン』(英語: PingPong)は、松本大洋によるスポーツ漫画。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館刊)1996年第14号より連載が開始、1997年第29号の第55話を以て完結した。神奈川県藤沢市を舞台に、卓球に魅了された5人の高校生によるスポーツアクションや才能を巡る青春が描かれている。単行本は1996年9月に第1巻初版が発売、翌年10月までに全5巻が発売された。2002年に曽利文彦監督、窪塚洋介主演で劇場映画化、2014年に湯浅政明監督によるTVアニメが制作された。 Wikipedia (JA)

Wikipedia (JA)

ここで引用した佐久間学と言うキャラは乱視で、小さい頃は卓球が下手だったんだけど努力で卓球強豪校に入って主人公を一度は圧倒するものの、もう1人の主人公にはコテンパンにされ…と言う人です。才能には勝てなかったよ…。

言うのも今さらすぎてなんですが彼は有名なネットミームのテンプレ名言も言っています。でも僕は「どこ見てあるきゃ褒めてくれんだよ」が非常に切羽詰まっていて好きです。

重要なんだよ、指標って。少しでも指標があっただけでだいぶ変わるよ。僕らは現代の佐久間学で、どこ見て歩きゃ幸せになれんだよってセリフに変わるだけです。

長々話しましたが次項結論です。

最終的に残るもの


一神教宗教が残ります。

ネタバレ?
と思うかもしれませんがこれはもう歴史に裏打ち(ネタバレ)されているんだよね。
寛容な多神教は滅ぶ定めにある。
無宗教派は熱心教アホやんなとは思ってもそれを迫害してまで止めようとは思わない。その逆はあるけども…(大体の宗教が異教徒は地獄に堕ちる(解釈によっては”堕ちろ”)と言っている)

だって新時代の熱心な宗教家かつ宗教研究家とかがたくさんいるんだよ?我々でいう狂信的なアニメ考察家だよ(多分比較にならないくらい強度が違う。なぜならアニメは多神教だから、熱意などがある程度分散されるから)。

滅ぶと言っても今生きている私たちがすぐ滅亡するわけではないのでこれはフィアモンガーではない。



フィアモンガリング(ふぃあもんがりんぐ、英: Fearmongering)あるいはスケアモンガリング(すけあもんがりんぐ、英: Scaremongering)は、危険が差し迫っているという誇張された噂を利用して恐怖心を引き起こす情報操作の一形態である。 Wikipedia (JA)

でも多神教及び無宗教は一神教に比べると弱い。著書ホモ・デウスで言われていた通り共同体として進化してきた我々の脳や体には宗教という概念が組み込まれていて、社会もそれありきで作られてきたから。

嫌がっても体は正直だな…ってやかましいわ!真剣な話をしている最中に申し訳ない。 漫画脳なので…。
でもここでもう一つ、重要なことがある。それは言葉である。旧約聖書の始まりの一句、その中に「はじめに言葉があった」とある。「言葉は神であった」と。それから神は暗かったので光あれと言って、世界に光を灯されました、と。(雑)

これは単に宗教の一句を引用しているわけではない。宗教が単に宗教、と軽く見られるべきではないのはその…データである。それは古代の統計であり、古代的生物学であり、行動心理学なのである。
古代人は人を解剖したり(解剖してた時代もあるが)ホルモン値を測ったりして中を観察できない代わりに、全ての人間にある(自らの)本能を使って、出来るだけ多くの人間を対象に言葉を選び、ルールを定め、教典を整えた。

そして今進化論や生物学を知るにつれて彼らの「本能」の合理性に感心することがある。
この一文に括って読み解くと、こうである。
我々人間は言葉を使って進化した。言葉は実現化する。それは今具現化、現実化するということとは違う。言葉は基本的に行動ありきだが、それを信じて実行することで(行動者が)言葉を実現化させるのだ。
海外にいると日本にはUnspoken rules(言葉に出されないルール規則)がいっぱいあるんでしょ?とよく聞かれる。

まあ多分そうかな?と答えるが、海外と比べると事実圧倒的に「そうです」である。(と断言しても自分を含めた多くの人がまあそうかな?と頭に符号を浮かべてしまうのは、まさにそれが「言葉に出されないルール」だから、概念的にふわっとしている状態だから)

言葉に出されずともルールに従えてしまう。

それこそが日本人の特殊性である。
それは民族性である。少数派である。世界の多数派は、言葉にしないと分からないというかそれが標準である。
だからこそ言葉や教典が失われると、規範もまた失われるのである。

古代人はこういった言葉の重要性を理解していたので、言葉を大事にしたし、古代日本人もまた言葉には神が宿ると信じ、言霊などと言ったのである。
それぐらい言葉はパワフルなのである。
もっというと言葉と感情である。これらが頭の中に残り、 それを失ってしまった時人はどうして良いかわからない。 そうして脳内パンクを起こす。現実逃避をする。あらゆる一時的快楽に逃げる。それが現在の依存症である。


後書き


でも例えば多くの日本人はそんな目的で身近でもない何かを信じろだなんて言われても嫌だとおもう。それは我々の国土風土が多神教やアニミズムを基にしているから。
自然由来でない教えに対しては違和感が強い。

そもそも他者に対して懐疑的なところがある。自然界で生きていく上でそれはとても重要である。そしてこの世もまた近代化された自然界である。

宗教はパワ〜である。人類が人類として物心ついたときから存在して今まで一緒に生き残ってきたのは伊達じゃないんだワ。
言葉自体がこれからも生き残ろうとあの手この手なんだ。

マジで一部宗教にパワ〜的に勝る価値観など……多分これは宗教が禁じていることの項目を見れば見つかるな……(性欲だな…)

個人的には家族友人とのつながり。そして愛。
などと思いますが、皆様最近どうでしょうか。ちゃんと人と話してる?(家族のあたりは本当どうしようもねえみたいな感じもありますが…)

全部欠けてても幸せにはなれん。完全な現代人として生きるには、体がオーガニックすぎる。
そういうジレンマに苛まれる人類今日この頃、色々分析してみたインサイトを共有しようおもてNoteを始めてみます。
各々個人が最適化された最大幸福を理解しそれに辿り着くために。

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