かっこよさ、とは?
「かっこよさ、とは」
というかっこつけたことを書いている。
けれども、そんなこと言っていたら、かっこよさのことを語れない。
ゆえに、語る。
かっこよさ、とは?
この記事では、僕が思う「かっこよさ」を述べるわけだが、僕がモテているかどうかは、分からない。
けれども、今までまっすぐ、自分らしく生きてきたことは、たしかだ。
その点から、僕は、「かっこよさ」とは、「生きざま」と思う。
じゃあ、この生きざまとは何か。
以下の見出しで、説明させていただく。
かっこよくなるには?
かっこよくなるためには、かっこよさを知らなくてはならない。
そのため、以下の見出しで、自分なりのかっこよくなる方法を書くが、自分なりのかっこよさとは何かを書いている、と思ってもらえば、幸いである。
等身大の誇りを持つこと
かっこよくなるためには、まず、等身大の誇りを持つことが、大切に思う。
等身大の誇りを持つことによって、周りからは、かっこよく見える、と思う。
なぜなら、傲慢ではなく、謙虚であり、自分を愛しているから、人を愛せるからである。
等身大の自分を分かる必要
それでは、まず、等身大の自分を分かる試みを起こそう。
要するに、謙虚と傲慢の話である。
謙虚と傲慢の中間に行くには、自分をほどよく律する必要がある。
だから、マイルールを持つ、というのも1つの方法と思う。
NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」に出ている人たちは皆かっこいいが、自分なりの哲学=マイルールを持っている、と言える。
これに関しては、日々、自分なりの考えをどこかにアウトプットしておく必要がある、と思う。
そうすることによって、周りに振り回されないような軸もできあがる、と思う。
あと、自分を客観視することも大切だと思う。
これも、自分の考えを、ノートやメモ帳に書くことによって、客観視できる、と思う。
等身大の自分を愛すこと
そして、等身大の自分を愛すことも必要、と思う。
自分がキライ、もしくは自分に誇りを持っていない人は、周りからどう見えるか。
それほど関心に止めない人、つまりモテない=かっこよくない人になっている可能性がある。
では、自分を愛するには、どうするか。
僕が思うに、どんな自分でも、「まあ、いいか」と思えるかどうか、だと思う。
たまに、外見上かっこよくない人で、モテている人がいるような気がする。
皆さんも、そう思ったことが、あるかもしれない。
これは、かっこよくない自分を受け入れているから、周りが親しみを覚えている、とも言える。
つまり、どんな自分であったとしても、自分に対し「まあ、いいか」と思えている人はステキな人になる可能性があるし、実際僕もそう思う。
かっこよくなくても、いいぜ。
じゃあ、ここまで書いてきて、「自分はかっこよくない。終わった」と思う人たちも出てくるかもしれない。
なので、一応、そのことに言及しておく。
あくまでも、僕の意見だが、かっこいい人はそれほどいない、と思う。
だから、気にしなくても、おそらく大丈夫、というのが1つ。
あと、現在はかっこよくなくても、これからかっこよくなる人もいる、と思う。
だから、現在、自分はかっこよくないかも、と思ったら、変わるチャンスだ。
短期的にはかっこよくならないかもしれないが(まあ、外見をかっこよくする、というのも方法の1つ)、長期的には、根本から変わっていく、と思う。
そして、もしかしたら、ほんとうはかっこいい可能性もある。
僕が、かっこいい人として定義したものから外れた、かっこいい人かもしれない。
それは、忘れないでほしい。
最後に、どうしても自分はかっこよくないと思う人に、言っておく。
かっこわるい人は、むしろ、かっこいい人を光にする偉大な影となっている。
だから、どうがんばったとしても、あなたは既にかっこいいのだ。
自分に厳しくしすぎず、自信過剰になりすぎず、自分を愛してください。
その理想の姿を、ともに求めていけたら、僕はとてもうれしいです。
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それでは、また。