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【エッセイ】七夕が来るとしたら、何を願う?
この記事を読みに来てくれて、感謝しています。
この記事の文字数は、1800文字程度、となっています。
時間がない等の方もいるかもしれないので、大まかな内容を、ここに載せておきますね↓
人々の願いは多種多様であり、それぞれの質も違う
僕は、現状幸せではあるが、もっと幸せになりたい
願い事というのは、願った時に、癒されることかもしれない
細かな内容を知りたい方は、よかったら、目次等を活用してみてください。
七夕、という日に対し、色々と心をめぐらせる。
そして、少し元気になる。
そんな記事に、少しでもなっていたら、とてもうれしく思います。
それでは、本編を始めます。
七夕が来るとしたら、あなたは、何を願いますか?
七夕が来るとしたら。
七夕が、いつものように、来るとしたら。
例えば、こういうことを、人々は願うかもしれない。
出会えていなかったなつかしいあの人に会いたい
行きたいと思っているが、なかなか行けない場所に行きたい。
自分の病気が、少しずつよくなって、幸せになりたい。
他にも、人々の願いは多種多様であり、それぞれの質も違う、と考えられる。
七夕が来る時。
その時、人々は、自分の本心を、たしかめようとする。
自分のほんとうの道を、歩みたい、と考える。
僕は、もっと幸せになりたい。
それで、僕の願いはなんですか、という少しどうでもいい話になるかもしれませんが、僕は、もっと幸せになりたい、と考えています。
現状、幸せではあるのですが、もっと幸せを目指したい、と思っています。
幸せを目指す、ということは、不幸になるわけではなく、ほぼ絶対的に幸せになる、ということですから。
もちろん、皆さんの場合は、現状維持や多くを望まないでもよい、と思いますよ。
ただ、僕は幸せを目指して、社会から必要とされ、自分も社会に幸せを共有できたら、きっと幸せだ、と思っています。
願った上で、やはり、何かしら行動に移す必要はある?
それで、人々が、何かしら願ったとして、それだけでよいのか問題。
僕に関しては、七夕が来て願ったとしても、願いが叶わない可能性はある、と思っていますが、願った時の純粋な気持ちが、願いにふさわしい現象を連れて来てくれるような気もするので、まあ、行動できたら、その方がいいよね、みたいに思っています。
僕は、かつて、小学生の頃に徹底的にいじめられて、いじめを克服したい、と強烈に思っていたことがあります。
そして、よろめきながら、吐きそうになりながら、這いつくばって、中学生の頃に、その願いは叶った、とも言えるかもしれません(実際は、まだ少しいじめが続きましたが、1つのつらい節目は、その時に越えた、と思っています)。
だから、願ったとしたら、ある程度何らかの行動を継続しないと、願いは叶わない可能性もあるかもしれません。
ちなみに、現在は、いじめによる後遺症は、99%くらい完治している、と思います(勝手に治ったというよりは、治療に関係する行動を、忍耐強く実行していく中、多くの人のお世話になりながら、苦しみを緩和することに成功した)。
おそらく、この記事を見ていない可能性もありますが、小学生当時に僕をいじめていた人に言いたいことがある。
あなたのことは、もうゆるしている。僕は、そんな過去より、今を生きて、未来に進んでいる。あなたが、自分の犯した罪をある程度反省できたとしたら、ようやくお互いが、過去よりも未来に向かって、今を生きることになる、と思う。言語化はむずかしいが、僕はあなたを傷つけたいとは1つも思っていない。そして、あなたは、あなたの道を歩いていってください。僕は、僕の道を歩いていきます。いつか、出会う可能性も、もしかしたらあるかもしれませんが、とりあえず、今の僕は、あなたといっしょにいられるような立ち位置にはいない、と思います。僕に出会うなら、もう少し人間的に成長した状態で、軽い心持ちで出会いたいな、と思っています。
色々書き連ねて、関係ない読者さんはぽかーん状態かもしれませんが(笑)、とりあえず今自分のちょっとした願いを書き連ねていたら、なんとなく、願いがすでに叶ったような気がしました(笑)。
願い事というのは、ある意味、願った時に見えた景色や気持ちに癒されることかもしれない、と少し思いました。
たとえ願いが叶わなかったとしても、願い事をした人の純粋な気持ちは、日本のあちこちに、見えなくても、きっと存在している。
僕は、それを、願い事が叶うのと同じくらい、ステキなことかもしれないな、と七夕という今日に対し、思っています。
その現象は、ないのではなく、たしかにそこに、存在するのだから。