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停滞の年

先週末、双極性障害の患者会に参加した。その場で今年はどんな年だったか?ということが話題になった。

誰もが口にしたのは、今年はコロナ禍で大変だったということだ。そして私もそんな状況の中で、一人暮らしを始めていろいろ困難にぶつかることがあった。

しかし私は一人暮らしのことには触れず、今年は停滞した年だったと発言した。世の中が確実に変化し先が見通せない中で、就活や友だちと会うことでさえ様子見をしないといけなかった。だからなかなか物事が進まなかったという意味で「停滞」と表現したのだ。とはいえ、この理由だけでは停滞と言った理由の全てを言い表せていない感じが残った。

患者会から帰ってからも、自分はなぜ「停滞」という言葉を使ったのか気になった。そしてじっくり考えてみて、分かったことがある。それは物事の停滞というだけではなく、自分自身の成長が停滞したと感じているからではないかということだ。

振り返ってみると、今年は変化の中で忙しく大変であったと同時に、充実もしていた。しかし成長は感じられていない。それは確実に努力が足りていないからだ。自立という私の本来の目標に向かって自ら負荷をかけるとでもいうような、自分の成長のためのトレーニングができていない。
(*自立という目標、成長のためのトレーニングということについては、次回改めて書きたいと思う。)

そして今自分が感じているこの停滞感は、この先自分の自信をそぎ落とすだろう。自分の中心にあるマグマを生きるエネルギーに替えて努力し成長し続けないと、自信がどんどん減る。そして自分らしい自分でいられなくなるような気がするのだ。

自信がそぎ落とされた状況では、病気も悪化するだろう。もう病状の酷かった昔には絶対戻りたくないのに。

今年は体調を崩さないようにということを意識しすぎて、守りに入っていたように思う。目の前の困難に振り回されたり、今を楽しんだりすることを優先しすぎてしまった。(目の前のことに取り組み、今を楽しむこと自体はいいことだが、本来の目的とのバランスにおいては問題になると考える。)

不思議なことに私は、ストレスがなく安定した状態で充実した生活を送っても、幸せな人生だったと思えない人間だ。こういう停滞感に焦り、努力なく成長もしない自分が許せない限りは。


自立したいと意気込んで一人暮らしを始めて4ヶ月経った。4ヶ月分に見合う努力と成長がないまま、時間が経ち過ぎた。

今は努力しないことの言い訳が見当たらないほど、環境や自分の体調も整ってきた。病気が障害になっても、自分なりの自立の形を見つけたい。

そのために今は努力しかない。そう気付いた自分に武者震いを感じている。

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