大きな変化と大きな不安
2022/03/07(月)
不調が続いている。
それはこの大きな不安が原因だと思う。
不安になっているのは、以前からnoteで書いていた主治医が退職するからだ。
主治医が退職するというだけで、人生の最大級の不安が襲っている。
さらに次の主治医を探す中で、家族やパートナーと話しておくべき大きなテーマが一気に噴出し、不安を増大させている。
そのテーマとは、例えば結婚のタイミングや住む場所(賃貸か購入かなど)、パートナーの国籍、家族の反応、病気への理解などについてだ。
またウクライナとロシアではじまった戦争が私の将来への不安を助長している。
そしてその中でも一番の不安は、今の問題に対して立ち向かう元気や気力などのエネルギーがない、不調が続いているということである。
主治医が替わっても、今以上良くなることはできるのだろうか。
不安の塊が大きすぎて、人生が転落するイメージばかりが頭をよぎる。
もし主治医が退職しないなら、少なくとも今ある現実的な不安に対処することはできるだろう。
例えば不安があっても「起きていないことに対して、今は考えなくてもいい」とか、「何か起こっても(主治医の助けを借りて)何とかなるだろう」と楽観できているだろう。
これまでは、今までの経験と主治医への信頼によってそう考えることができていた。
では改めて、私にとって主治医の存在とは何だろうか?
主治医は私の人生の絶対的応援者であり、最高の味方だ。
私の話を全力で聞いて私の頭の中を整理し、私が本当にしたいことを貫けるようにサポートしてくれる。
一方で主治医は、とても特殊な存在であることは間違いない。
なぜなら主治医は、私の人生における人間関係の当事者ではないからだ。
(逆に家族やパートナーは私の人間関係の当事者である。そのため気持ちを汲んだり反発したり、私の思いや行動と行き違うことは当然だ。そのことが私の病気に大きく影響を与える。)
主治医とは病院でしか会わないし、主治医の私情や期待を汲んで私が行動することもない。
主治医の感情や行動はすべて、私の病状がよくなるためだという視点からブレることはない。
当事者でないからこそ、主治医は仕事として、私の病状が良くなることに集中的に関わってくれる。
その状況がどれほど信頼できるもので、安心できるものか分からない。
(もちろんそう思えているのは、主治医自身の人間味のある感情や行動、そして仕事への情熱に心打たれてきたからである。)
この主治医のおかげで私は、体重100㎏近くの引きこもり自殺願望者から、自由に動けて気ままな一人暮らしを送れるまでに回復することができた。
その主治医が退職する。
私は心柱?(精神的支柱)を失う。
大丈夫だろうか。
そもそも主治医が替わるがごときでこんなに騒いでいることに違和感を持たれるかもしれない。
そもそも今私が抱えているテーマは誰にでも起こっているような、そして皆それらについて自力で乗り越えてきているようなテーマかもしれない。
本来なら自分でなんとかしないといけない局面なのだと思う。
しかしながら私が主治医のような存在に依るのは、やはり私が精神病だからだと思っている。
精神的ストレスに弱い体質や、思考が淀みやすく偏る傾向にある自分でも、健常な判断をしてできるだけ健康に人生を送りたい。
だからこそ自分の脆弱な部分を主治医の力を頼りにして乗り越えていきたいと思っているのだ。
ただこれからは、今の主治医の代替の先生に出会うということだけを期待しないようにしたい。
つまり、私の脆弱な部分を助ける自分なりの方法をたくさん見つけなければいけないと思っている。
例えばカウンセラーに頼ったり、患者同士や本やネットの情報などを探したりして、自分で自分を助ける体制を作っていかなければいけないと思う。
自分を助ける体制のひとつになるかは分からないが、昨晩の出来事は希望に近いものだった。
夜中目が覚め不安で死にたくなったあと、パートナーに旅に出るとか入院するとか泣きながら訴えた。
そして私はパートナーに不安をマインドマップのようなものを書きながら説明した。
その結果、自分が考えていることはおかしくないと思い、自分の不安の構図が分かって少し安心した。
そして何より、泣いてパニックになっている私に夜中起こされても、私が落ち着くまで話を聞いてくれるパートナーに本当に感謝した。
きっとこんな風に今の主治医がいなくなっても、大丈夫なことや代わりに頼れるもの、自分で自分を助けるものを見つけていくのだろう。
そうなるといいと思う。
人が主治医が私が、心地よい風が吹くようにどんどん変わっていく。
それは大きな不安を伴うが、きっといいことなのだろうと思う。
春のはじまりのような今日の天気がそう思わせてくれる。
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