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ウクライナで燃えた絵

私は絵が下手です。謙遜ではなく、かと言ってはいだしょうこ画伯の伝説のスプーの絵ほどでもなくごく普通に下手です。

小学校1.2年生の頃の担任のいつもピンクのひらひらの服を着たおばさんの先生は絵が大好きな人でした。美術の時間や他の空き時間にも何かと生徒に絵を描かせては先生がピックアップした絵を校内外問わずいろんなコンクールやイベントに出してくれました。
おかげで他の子も何人かはそうでしたが私も担任してもらった2年間の中でもらった賞状の数は両手の指を超える枚数になりました。大抵佳作などでしたが初めてもっと上の賞をもらった時はとても嬉しかったです。しかしそれ以上に当時の私の誇りとなった絵が1枚ありました。

私がその頃を過ごした京都市は国内で唯一ウクライナのキーウと姉妹都市関係にあるそうです。その何周年記念か何かの美術交流で互いの国の子供達の絵が贈り合われることになり、私の絵も選出されました。
「(私)ちゃんの絵はウクライナのキエフってところに行くねんで」
当時はキーウという呼称ではありませんでしたが先生や親に言われたその言葉が普段の入賞とは違って特別なような気がしてとても嬉しかったことをよく覚えています。
時が経ち自分が絵が下手な部類の人間であると気付いても今も尚たまに思うがままに絵を描くことが好きなのはこれらの原体験があるからでしょう。
小学2年生の時、私の脳内世界地図にウクライナという国が刻まれた瞬間でした。

出した絵はウクライナで展示されもう戻って来ないそうで少し寂しかったのですが写真に撮り、賞状の左半分にもその絵は印刷されていました。

「今日は雨の日の絵を描いてみましょう」
梅雨時期に先生に言われて定規の淵にいろんな青色を塗って雨の線を付け、紫陽花を眺めている女の子の絵でした。子供の絵らしいと言うべきか、傘を持つ腕がアンバランスでやたらと剛腕女子になってしまった絵でしたが良き思い出としてよく覚えている絵です。

“キエフってどんなところやろう。暑いんかな、寒いんかな。名前的に砂漠がありそうな気がする”
小さな私は砂漠の真横にロンドンのような大きな街並みがあってその中の美術館のどこかに私の絵があるのだと、随分と見当違いな想像をしていました。


私だけでなく世界がウクライナのその街の様子を見ることになったのは2年と少し前からです。あの頃の私が想像していたキエフは破壊され、ニュースではキーウと呼ぶように統一されました。
いくつかの美術館も破壊されたと報道されていました。価値のある美術品は現在避難させているそうです。

実家の屋根裏を漁って賞状を探せばどの美術館かは分かりますが調べることはしていません。どのみち十数年前の子供の絵が残っていたかも分かりません。しかし、私はニュースを見てもうあの絵はこの世のどこにもないのだろうと思いました。どのみち現物を2度と見ることはなかっただろうけれど、そのニュースを見た日はとても寂しかったのです。

大して人に話したこともない、自分の中のプチ自慢が消えてしまった。どうしても避けようのない自然災害などではなく戦争で燃えてしまった。

戦争が生むたくさんの大きな悲劇については専門の方や現場を見た方の話や文章でちらっと調べることもしっかりと勉強することもできます。
一方的な侵略で両国の命が散ってゆくことが一番の問題だとは思いますし、遺された人々の痛みや憎しみや打ちひしがれる感情は私たちの想像を絶するものでしょう。

正直に言えば戦場のニュース映像を見ている時の方が私はよっぽど心が痛みますが、人と人が、国と国が繋がっている限り、こんな小さな小さな悲しみも生むということも身をもって知りました。

人間が戦争をしていなかった期間は世界史全体でたった6年だそうです。(紛争や内乱も無かったのかまでは確認できませんでした。有識者の方いらっしゃったら是非ご教授ください)
戦争や紛争が無くなる日って、きっと無いのだろうと私個人としては考えています。莫大な金が動き同時に技術革新もするからです。
ただでさえ物価高や円安に悩まされる日本から税金を元に多額の他国支援を行うことの賛否はあると思いますが。

私は単純に、憎しみは少しでも少なく、誰かができる範囲で誰かを助けようとする世界であればなあ、なんてありきたりな綺麗事をたまに思い返すのです。

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