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正しい愛し方

もうこれ以上の行き場が無い気がするほどに煮詰まったので窓を開けてみると、外の世界は実在していて私の家族や友人たちはそれぞれの幸せを懸命に盲信的に守っていた。

随分昔、学生の頃の恩師と酒を飲み交わした日に彼は言っていた。
「自分を愛せない人が他人を愛すことはできない。自分すら愛せないと正しい愛し方を知らない」
最近彼女にプロポーズしたという彼は私を諭すように話し、これが最後の授業なのだと感じた。今まで他から似たような言葉を聞いたことはあったけれど、若い私に向かってきちんと教えられたその理屈に素直に納得できた。

数年後、偶然再会した恩師は離婚していた。

そんなことをふと思い返して、果たして私の愛に正しいものが一つでもあったのかと生爪ごと剥ぎ取って並べて数えた。
家族愛、恋愛、友愛、自己愛、他種族を愛でる時も私の愛情は其れに似たタチの悪い何かだったのだろうか。多くはない愛の矛先へ向けて守りたいと思ったことも、守られたいと思ったことも、もう殺してやろうと思ったこともあった。

何も、残らないんだ。
他人をどれだけ愛せど、愛されたように錯覚しても、それは各々の生存戦略であり皆いつの間にか自分の巣穴に帰ってゆく。
何も、残らなかった。
私を愛してずっと側に居続けられるのは私だけのようだが、生憎己の善も悪もよく知る自分へ愛を注ぐことは至難の業だった。
何か、残ると思いたかったけれど。
臓器の腐った部分を切除するように愛だと思っていたものや執着だとかを切り落とすと、もう何も残らない気がした。

ずっと頭の片隅でフィルターをかけて見ようとしなかったものを自認をする度にひとつ、またひとつ解放されてゆくような気がした。これが自分を愛するための足掛かりらしい。私の生存戦略だ。
続けていれば、執着を捨てて何処かへ浮かべるだろうか。
その為に対象への興味も尊敬も取り外して私にとって価値の無いものだと暗示をかける。美化したり好きだと思えた部分を脇に置いて本質を見出そうとする。独りよがりな期待のせいで見定める眼を揺らすことには疲れたのだ。

私のこと、愛してくれないなら別にいいよ。私はまだ誰かのことを愛せないようだから。

私はいつか今より傲慢な人間になる気がした。尤も、人間とは傲慢な生き物であった。

“貴女の花の写真には愛があります”
どうしようもない時に言われたその言葉はきっと当人にとっても嘘ではなかった。私は何かを愛することができると信じた。生きる糧を思い出せたと感じた。

それから着々と増えた沢山の我が子たちは野性を生きて、無垢な花は生存競争の中で我先にと陽の光を求める図太さを教えてくれた。深く観察し満遍なく日が当たるように、できるだけ見栄えが良くなるようにと毎日せっせと世話をする。これが私の愛を捧げて幸せだと言える存在だ。
しかし以前より、花の写真を撮る機会が随分と減った気がする。

気付けば何にも興味が持てなくなってしまった。
サイクリングに山登り、水族館に植物園、博物館、美術館も。映画も謎解きも寺院巡りも美味しい食事も大好きなはずだった。
今は私を生かす全てが時間と金の無駄に思えた。

全て消えてしまう前に私は飲みに出かけた。
アイラインを少し長めに引いて髪をセットし、黒と白の清楚なようで緩んだ服を着て透明感のある赤いリップを塗った。大切にしまっておいた新しいサンダルを履くと足元が綺麗に見えた。汚い夜の繁華街を闊歩した。
私が出来上がった。全てのしがらみを裏切れてしまうような自由な自分の外殻が存在した。
帰り道、タクシーを捕まえる距離でもないと小雨の中を歩く私は新しいサンダルで足を痛めた。

近いうちに植物園に行こうと思った。
履き慣れたスニーカーで睡蓮とダリアを見に行くのだ。写真は撮っても撮らなくても良い。景色にも旬があり、時は流れて待ってはくれない。
私を必要としないものを待つ必要はない。本物を目にした者だけが享受できる美しさを私はまだ1人で求める他ない。
いつもの散歩のように一人きりでただ眺めるのだ。
まだ、美しいものを美しいと言える自分だけは残っていることを切に願って。

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