見出し画像

メレンゲ・メリーバッドエンド

月が見えない夜、拾い上げられた救いを大切に抱いて温め直すのは眠るにはまだ勿体無い気がしてしまうからでしょう。眼前の視界よりも薄い夢の断片よりも、焦げた記憶に執着してしまうのはそこから何か一つでも見出せるものがないと自分は途轍もなく無責任な人間だと感じたり、降りかかった理不尽を理不尽としてラベリングすることを受け入れたくないからでしょう。
私は加害者にも被害者にも成りたくなかったのです。
これが私の自己愛だと気付き言語化できるまで随分と長い時が経ったものです。

全ては変化してゆくと知ったその日から、何処か把握していない所で何かが変わって個人的な未曾有に嵌ることが、誰かが離れてしまうことが恐ろしくなりました。だから人は約束をしたがるのだとも思いました。
しかし真白の薄氷の上を安全だと言い聞かせられながら歩くように思えてしまい、私は約束は苦手です。

自分のこともままならない私は旅に出ました。瀬戸内の島々の、富士の麓の湖のいつかきちんと終わりがあるコースをひたに自転車で駆け巡りました。死の象徴ともされる樹海では実は厳しい環境に置かれながらも自らで森を作りゆく生命達の強さに圧倒され敬服しました。様々な青に囲まれて全てから離れたかった私は何を得たい衝動に駆られているのか深く考察を重ねました。

自分のこともままならないままでは居られず私は懐かしい景色をもう一度眺めに行きました。桜の大木と柳が靡く冷たい橋を、社会的ステータスの為と言い聞かせて毎朝少し泣きたくなった竹藪の山を、幼い私が楽園と定義した庭園を。
葵色の薮蘭の花を見つけた時に、私は何に喜びを感じるのか一つ思い出しました。

自分のこともままならない私は人に助けを求めました。笑いながらどうしようもないと話す私をそれぞれの方法で受け止めて気にかけ、時間を割いてくれることで私は有り難さを知りました。彼ら彼女らはこれを友情と呼んでくれることが頓服薬のように一人の時間の私を鎮めてくれます。

自分のこともままならないうちは対等を主張する権利は無いので何が足りてないのかを指折り数えます。

そうして私はのらりくらりと、一人でぼうっと鎮座します。足元の土台がメレンゲ菓子の如く脆いのでじっとそこで膝を抱えます。

きっと大事な出来事を反芻するのは、そうしていないと何かを手放す気がしてしまえて。手放した方が楽になれることでさえ自分の一部となったように感じ、戻らない過去を押し殺したりだとか縋ったりしてしまうのです。
そしていつか別の幸せがきっと訪れるとは知りながらも今ある幸せや過去の愛や憎しみといった執着の灯火がふと消えてしまうことが淋しくて仕方がないのです。

幾ら他人や自分自身が言葉で説得を試みても、意識の不純物は自ら心の奥底のフィルターで濾過し続けなければなりません。私たちは不幸ではありません。
様々な人に支えられていることを知って無碍にもできず、かと言って漠然とした“いつか”が来ることに、来ないことに少し怯えているだけなのです。

しかし自分のこともままならない私なのに、もし心から大切な人が何か同じような波に飲まれていれば喜んで差し出せる行いの全てを捧ぐでしょう。大人になると何故だか人に話すことを躊躇ってしまう鬱々とした靄で肺がいっぱいになってしまうのであれば、尋ね、傾聴し、言語化する手引きをしましょう。
それでも晴れないならばメレンゲ菓子を踏み抜くように粉々にしてしまっても良いのです。それで大切なあなたが少し楽になれるのならば。

あまつさえ私以外の誰も望まなくともそれが私の“いつか”であってほしいと願うことは未熟な利己心でもあるのでしょう。
しかし曖昧さに翻弄されたり疑問に気付かないふりをして実を腐らせるよりもメリーバッドエンドを選ぶ勇気の先には当事者たちが永遠と感じるような幸福が待っているようです。
狩る者の双眸の滲んだ美しさは私には眩しすぎて直視できません。合わさったその視線に従順で在って良いなら、奪われて骨まで砕かれようとそれを幸せだと当人は呼べるのでしょう。

毎日が刺激的でなくとも、安心できる場所に身を置き委ねられる余裕があれば外界のコントラストはより大きく幅を持って私たちの目に映り経験となります。

できる限りたくさんの景色を見たい。その為に何を選び何を捨てるのか。一つのエンディングが過程になった後も幸せだと言えるのか。
そこに注力して生きることが沢山の期待を裏切るとしても正しいと言えるのか。他人と関わりながら生きる以上、自分の為に生きるということは権利でありつつ行使することは難しい局面が多い気がします。

そんな社会性を超えた繋がりのメリーバッドエンドを、私は強く尊いと讃えたいのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?