<小説> 檸檬 / 梶井基次郎

  「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧さえつけていた」

 何やら不穏な一文から物語は始まる。何かが「檸檬」の主人公「私」の心を蝕んでいるらしいのだ。「焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか」、あるいは芥川の云う「ぼんやりした不安」か。現代風に云うならば、鬱だろうか。美しい音楽や詩がどうにも我慢ならなくなり、「居堪らずさせる」。「私」が魅せられたのは「壊れかかった街」の風景だ。汚らしい裏通りや傾いたあばら家。頽廃の路地を歩いていると、「時として吃驚させるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする」。モノクロの風景を歩いていて、不意に黄色や鮮やかな赫が眼前に現れるような、この基次郎の色彩感覚が「檸檬」の魅力だ。

 基次郎は五感が異様に鋭かったという。百メートル離れたところに咲く花の匂いを嗅ぎ当てたり、戸外から聞こえてくる下駄の音で、その者の感情が判ったという逸話がある。この共感覚的な性質が、僅か五ページという短さの短篇に十全に活かされているのだ。まず「秘やかな楽しみ」という詩が書かれ、それから「瀬山の話」という習作が書かれ、いよいよ「檸檬」という一顆の果実に結晶するのだが、「檸檬」は初めの詩の延長とも言えるような美しい文体で終始綴られている。これは芥川龍之介が「文芸的な、余りに文芸的な」で谷崎潤一郎への反論として提唱した純文学の定義にあった、「通俗的興味の乏しい」「最も詩に近い小説」に当てはまる作品なのではないかと思う。その芥川が「檸檬」の発表される六年前、「秘やかな楽しみ」の三年前に、「蜜柑」という短編を出している。

 「蜜柑」の主人公は、「云いようのない疲労と倦怠」「不可解な、下等な、退屈な人生」に対する「憂鬱」を抱えながら汽車に揺られている。眼前に坐る小汚い娘が、煤が入ってくるのも構わず窓をあけてしまう。主人公は咳き込みながら、叱りつけようか迷うのだが、娘が不意に窓から身を乗りだして蜜柑をばらばらと放るのを見て、思わず外に目を向け、すべてを了解した。娘は、汽車の見送りに来ていた弟たちを蜜柑で労ったのだった。主人公は抱えていた憂鬱を忘れた。薄汚い娘と煤と、ばらばらと舞う蜜柑の色彩の対比、これには基次郎の「檸檬」に通ずるものを感じないではいられない。

 「檸檬」の序盤、そのデカダンス的な美の好みがつらつらと語られる。「安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束」「びいどろという色硝子で鯛や花を打出してあるおはじき」等に表させられる安物の色彩、といって「無気力な私の触角に寧ろ媚びてくるもの」に慰みを求めた。以前は丸善で、もっと高級で洒落たものに惹かれ眺めたものだったが、借金に背を焼かれるいまではそれらは苦痛の種でしかなかった。或る日、友人の下宿に独りでいると、「何かが私を追いたてる」ような強迫観念に駆られ、街をひたすらに彷徨せざるを得なくなった。そして果物屋に立ち寄ったのだった。「私」は珍しく出ている檸檬を手にとる。「レモンエロウの絵具をチューブから絞り出して固めたようなあの単純な色」「それの産地だというカルフォルニヤが想像に上がって来る」といういたくハイカラな描写が続く。「私」の心は不思議にも檸檬一顆で軽くなったのだった。

 「つまりはこの重さなんだな」

 憂鬱病に苛まれる「私」に悲劇性があまり感じられないのは、セリフや語り調子に、どこか軽やかなユーモアの香りがするからだろう。作品全体を通して不思議な明るさが通底しているのだ。基次郎は十代のころから結核を患い、三十一歳という若さで苦しみ抜いて死んだ。だが基次郎はふだんから重病だと悟られぬよう明るく気丈に振る舞っていたという。高熱のなか何時間も川の中で釣りをしたり、結婚するなら看護婦だなァと病床で嘯いたり、「葡萄酒を見せてやろうか」と言って喀血した血をグラスに入れて「美しいだろう」と友人を騙したり、宇野千代の気を惹こうと流れの強い川に飛び込んでみたり、とてつもない精神力の持ち主なのである。

 「私」はふと平生は避けていた丸善の前に立っていた。檸檬の魔力で興奮に弾んでいた「私」はふらりと店内に入ってゆく。「然しどうしたことだろう、私の心を充していた幸福な感情は段々逃げて行った。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った」。力なく画集を取り出してはぱらぱらとめくるが、ちっとも面白くない、そして戻す元気もなく乱雑に積んでいく。画集の城壁、これもまた色彩に富んでいる。そこへ檸檬を据え付けてみる。「そのレモンの色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」。”ガチャガチャ”や”カーン”といった一見抽象的な描写が、この上なくしっくりと、この絵画的な一瞬を捉えるのに役立っているから不思議だ。

 第二のアイデアは奇怪なものだ。この不意のいたずら心は読者の心を和ませる。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」。「私」は何食わぬ顔で外に出たが、そこへさらなる奇妙な考えが浮かんで来るのだった。「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう」。恐ろしいテロリズムの空想だ。しかしながら読者は、世にも鮮やかな色彩的大爆発を想像して妙に愉快な心持ちになるのである。爆発の後には、「私」好みのデカダンス的な頽廃美に彩られた廃墟が残されるだろう。「私はこの想像を熱心に追求」しながら、映画の看板が「奇体な趣きで街を彩っている」京都の街を下って行った。まるでサイバーパンクの先駆けのような色彩のパレード的小説だ。だがその色味や詩的な美しさだけでなく、檸檬の爆発によって、我々現代人の誰しもが抱えている「えたいの知れない不吉な塊」が、瞬時に木っ端微塵に吹き飛ぶような感覚、その感覚が我々読者に晴れやかなカタルシスを与えてくれるのである。

 「檸檬」の五十一年後、村上龍が「限りなく透明に近いブルー」を発表し、二十四歳で芥川賞を受賞した。基次郎が「檸檬」を書いたのも二十四歳だった。「ブルー」の中で、主人公リュウが情婦リリーとラリったままドライブをする場面がある。車は変電所の側のトマト畑に入る。豪雨の中、雷が落ちてリリーが車外に飛び出す。リュウもまたトマトの海に入ってゆく。リリーが赤いトマトをちぎり、リュウがそれを空に投げる。「リリー伏せろよ、あれは爆弾だぞ、伏せろよ」。「ブルー」もまた、頽廃的な暮らしに身をおく青年の自意識を描いた小説だった。物語の中に出てくる象徴的な赤く光るトマトが、基次郎へのオマージュに思えるのは、俺だけだろうか?……


#小説紹介 #小説解説 #小説レビュー #推薦図書 #檸檬 #梶井基次郎 #文学 #小説

この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?