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夢見るソファ

 この室での最古参、それは浅葱色の革のソファだ。とはいっても、アパートに越してきて買ったから、十年くらいのものだろう。すぐに物を壊し、気が向いたら躊躇なく棄ててしまう俺の病的な性質から、どうにか運よく生き残ってくれている。蛙の皮膚のようにしなやかな革は、触れると夏だろうが高嶺の女みたいに冷ややかで、スプリングは南米の黒人女がどんなに激しく腰を振ってもビクともしないくらい頑丈だ。俺は一日の大半をこのソファで過ごしている。朝、まずソファで目醒める。薄い布団を敷いて、肘かけの関節を折って枕代わりにして寝ているからだ。起きると、毛布を引っぺがし、老人の膝が鳴るような音をたてて肘かけをおこす。背もたれがないから、乳房みたいな感触の肘かけにそのまま寄りかかる。肘かけの真ん中には、血のような斑点が三つ斜めに走っている。

 第一京浜沿いのリサイクルショップで見つけたとき、剥き出しのクッションが二つ添えられていた。その染みだらけの灰褐色のクッションは、一つはアルバイト先に、もう一つは首都高の高架下に棲む浮浪者にくれてやった。十年近くたったいま、アルバイト先の事務椅子に敷いてあるものは女の尻汗をたっぷり吸ったろうし、羽田口にいる乞食も変わらず愛用してくれているから本望だろう。ソファは人の好さそうな店主がトラックで運んでくれた。ついでに、断捨離欲がもたげてきていたから一息に家具やガラクタを処分しようと思い、鑑定してもらった。まず、何を血迷ったのか友人から譲り受けた洗濯機が部屋の隅にあり、これが恐ろしく邪魔だった。店主は、二束三文にもなりませんよ、と苦笑いを浮かべたが、金は要らないんで持っていってください、と頼んだ。店主は顔を輝かして会釈をし、最終的な見積もりを計算するためだろう、一旦店に戻っていった。……が、一週間経っても連絡はなく、俺は店主の思いがけぬ破顔を了解した。金は要らないんで持っていってください。あの言葉だ。俺はすべての物をゴミのようにくれてやったらしい。それでも狭い部屋の半分ほどを占めている湖色のソファに目をやると、うっとりとして何もかもを赦してしまう気になった。だがしばらく経つと、すぐにでも出ばっていって店主を締め上げてやりたくなった。おれはいまでも憶えているぞ、おれの物を盗んでいったおまえの厭らしいえびす顔を。店の前を通り過ぎるたびに忌々しくそう思った。

 浅葱、群青、紺碧、……昔から青が好きだった。高校二年の頃、ユニクロでふと見かけた水浅葱のセーター。あんな色のセーターを着て、校内で浮くことなど微塵も考えていなかった。指定の赤ネクタイがどうにも合わず、どこかの私立高校の女の彼氏のだという青と白の縞模様のネクタイを締め、水色のコンバースを穿いた。髪は目立たぬブルーブラックに染め、なぜか多かった白髪だけが明るい青色になり、一人で悦に入っていた。布団のカバーも枕もカーテンも空模様だった。大学時代、駅から走るスクールバスのなかで、高校でグラビアをやっていたという顔が小さく乳房が大きい憧れの女生徒に、初めて声をかけられたのが、青いね、という嘲笑の香を含んだ一言だった。濃いブルーの革ジャン、青いラインの入った白のロックTシャツ、それに憶い出すのも恥ずかしいライトブルーのスキニージーンズ。脳裏に浮かべるだけで青ざめるほどに、俺は青かった。

 いまは、わりに落ち着いている。部屋を見渡しても、ソファ、ジムで使うブレンダーボトル、登山用のリュック、目覚まし時計、それからアパートの外にある空色の自転車、そんなものだ。ずっと着ていた青い革のジャンパーも、とうとうこの冬に棄ててしまった。高円寺の古着屋で、別れた女に買ってもらったものだった。少しずつ、俺の周りから青が消えていった。古参のソファも、このアパートを出るときにオサラバするつもりだ。布団を剥がすと、シートから汗の匂いがたち昇る。俺の体液がすっかり染み込んでいるらしい、もはや拭いきれない厭なにおい。このソファで女を抱いたことはないが、自瀆は数えきれぬほどした。ティッシュから漏れた若い精液が垂れたことも一度や二度ではない。女が坐ったら、たちどころに懐胎するかもしれない。シートの下に棺のような空間がある。いざとなれば、女の一人くらいは匿すことができる。”人間椅子”のように、潜んで待つことも可能だ。中には、何てことはない、酒瓶と、淫猥なビデオがいくつか転がっているだけだ。酒は女を酔わせるための強いウォッカやウイスキーが揃っているが、封すら開く気配がない。でも、酒は腐らないんだろう? どうせなら、ワインでも入れて醸造させておくのだった。案外、俺の体液が味に深みを与えるかもしれない。

 たまに、布団を払い落として、硬い板のような、背もたれともいえない仕切りに、ピタリと躰を押しつけて抱きつく格好で眠る。馴れた快い肌触り、そして俺の体液の匂い。深みのある浅葱色の革に包まれていると、静かな湖の底にでも沈んでいるみたいな感覚に陥る。そうすると、ウトウトとしてくる。いつか、このソファもあっさり棄てさる日が来るのだろうな、そんなことを考える。間違っても、リサイクルショップなんぞには頼むまい。誰の手にもやらない、できることならこの手で焼き払いたい、俺だけのソファ。或いは、どこかで出逢った女が一目で気に入って、見たこともない外国産の洗剤か何かで、この厭な匂いがあらかた拭われたならば、窓から射す光にあふれた湖のようなシートに、ふたり沈みこんで、…………


#小説 #文学 #日記 #退廃 #エッセイ

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