門番

 だめでした、途中で心が折れちゃって、せっかく勧めて下さったのに、すみません……。厨房に入るなり、女子大生の中条がそう言って頭を下げてきた。ああ、いいよ、いいんだ、おれが悪かったんだから。「岬」を読んで二時間ほど茫然自失となったという中条に、高校時代に友人に借りて耽読した「限りなく透明に近いブルー」を薦めたのだった。危うくポケットに忍ばせていたシュニッツラーの短篇集を、貸してあげると差し出すところだったが、これは持ち帰らねばなるまい。恋人がいるらしいが、まだ生娘なのだろうか? 或る主婦には男狂わせの女狐だと評されていたが、俺の目にはどう見ても無垢な処女としか映らぬ。だが若造たる俺よりも数え歳五十の人妻の批評眼が劣っているとも思えないから弱る。主婦の思惑通りならば、眼前で頰を赧らめ狼狽する中条がとんでもなく悪い女ということになるのだが。……
 入れかわりで俺はレジに立った。小汚ならしい野良犬どもが丼に顔を突っ込んでいるさまから目を背け、バックヤードに向かう中条の小ぶりな尻を追った。どうしても、あの華奢な腰を淫らに蠢かす想像ができない。Kさん、Kさん、と客席でバッシングをしていた上戸が加齢臭まじりの生臭い息を吹きかけてくる。上戸は手招きして、厨房から見えぬ所に俺を引っ張ってゆく。あのねKさん、さっき中条さんと話しててね、三人で飲みに行こうってなったの、で、ぼくの携帯ラインとか使えないでしょ、だからKさんに連絡先聞いといてって伝えたんだ……。上戸とは新年早々に夜勤明けで、駅前の朝からやっている居酒屋でスナックから流れてきた酔漢たちとドンチャン騒ぎをしたばかりだった。え、まァ構わないですけど、またあのマンボウ刺しの店っすかァ? と俺は呆れたような苦笑を浮かべて見せたが、内心では上戸を抱擁して頬ずりしてやりたい心もちだった。ふとバックヤードを見やると、ちょうど上戸には見えぬ位置で、中条が困ったような顔でこちらの様子を伺っていた。俺はあえて無視して、焦らしてやることにした。すると目ざとい上戸が俺の顔色を読んだのか、肩に手を回してきて手招きで中条を呼んだ。示し合わせてあるのだから、中条は従順に前に出てくる。俺はポケットから携帯を抜き、中条に連絡先を読み取らせた。昭和の終わり頃に没した或る小説家の肖像をジャケットに使っているからか、中条は画面を見て口に手を当ててクスクスと笑った。これKさんですか、と中条がかすれた声で冗談を言いながら、俺の目を覗き込んでくる。きみ生娘ですか? 答える代わりにそう口走りそうだった。

 その日の夜勤じゅう、俺はひどく上機嫌だった。相方の倉科は、またKちゃんの病気が始まったよ、と大袈裟に囃したてた。梅酒しか飲んだことがないと言っていた中条を、どこかバブル期の生き方が残る上戸が無理に酔わせようとしないか。それに、正月に見せたチーママに対する淫らな振る舞い、平生の紳士的で柔らかな物腰が嘘みたいなグロテスクきわまる性慾を開花させはしないか、危惧すると共に、どこか愉しみでもあった。女狐かどうか暴いてやるいい機会だと思った。俺としては蛇が出るとうれしいのだが……。
 朝が来た。日本男児たちの全男根が滾りかえる晴れやかな朝だ。俺はアパートに向かって揚々と漕ぎ出し始めた。不運にも赤信号が連続する、だが空は限りなく青い。狭い路地で車の気配もなかったが、俺は一人信号を守り、悠々と尻から携帯を抜いた。この僅かな待ち時間に、もう一度だけ中条のジャケット写真を見てみようと思ったのだ。巨大な楠の枝葉に手を伸ばす、白いワンピースを着た可憐な中条の肢体を。すると、通知が一件。これはしたりと思い、舌舐めずりせんばかりに開封する。そこには、このような文面がひどく事務的な文体で綴られていた。

 お疲れ様です。中条です。この度は御誘いいただき大変嬉しく思います。ですが、父と話し合った結果、殿方二人という点で猛烈に反対されてしまいました。そんな方々ではないと私は十分に承知しているのですが、父は許してくれませんでした。大変申し訳ないのですが、今回は辞退させていただきます。上戸さんにも宜しくお伝えください。申し訳ありませんでした。

 俺は愕然として、信号が空色に染まっても走り出すことができなかった。背後にいた若いママチャリの女が舌打ちをして抜かしていった。平成も終わろうとするこの現代に、何とも賢明な父がいたものだ。俺は感心すると同時に、やはり生娘なのだ、と了解した。この街であれほど無垢な生娘を育てるには、なるほどこうまで徹底して二十歳の女を管理せねばならないのか。古い書物がつまった書庫を持つという中条家の長のことだ、或いは俺が薦めた、不純な示唆とも捉えられかねない”純文学”小説にも目を通したかもしれぬ。すると俺はすでに一歩目を誤ってしまったということになる。ああ、まさしく不可侵領域、鬼が出るか蛇が出るか、まさか門番が出てくるとは思ってもみなかった。厳然と立ちはだかる掟の門とその門番、逃避行という悪魔的な三文字を脳裏に浮かべつつ、処女は喰わぬという自らの掟を顧みて、俺は悄然として路地に重い自転車を辷らせようとした。トラックがけたたましい警笛を鳴らしながら通り過ぎた。俺は危うく轢き殺されるところだった。何だ、また、赤信号になっちまった。……



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