日曜大工
珍しく大家から電話があった。俺は夜勤を終えアパートに帰るなり、荷物を置いて三階の大家の部屋を訪ねて行った。三度も名を叫んでやっと重々しいドアが開かれ、桃色の頭皮が透ける白髪の老婆がヌッと顔を出して手招きした。まだまだ冷えるわねェ、と大家は擦り合わせた手に臭そうな息を吹きかける。俺が黙っていると、大家は唇をすぼめてポツポツと要件を話し始めた。一階の人がね、また水が漏れてくるっていうのよ、前にほら、お風呂場を直してもらったじゃない? それでまた埋めて欲しいのよ、わたしいまから買ってくるからどのパテだか教えてくださる? そう言った後、大家は腰を屈めて肺を病んでいるような重い咳を連発した。ああ、冷えるわねェ。皺だらけの手で抑えた顔の中で老婆は低く呟いた。いいですよ、おれがサクッと買ってきますから。そう答えるよりなかった。大家に押し付けられるようにして貰ったラフランス入りの紙袋を一度持ち帰ってから、薄ら寒い灰鼠色の戸外に飛び出した。
いまにも降り出しそうな空の下を壊れかけの自転車で飛ばした。きょうも夜勤だった。小説を書いてから眠ろうか、それとも起きてから書こうか、走りながら思案した。いずれにせよ時間は限られている、そう思うと、いま自分が強制されている状況、そしてボロ小屋のくせして十万もの家賃をふんだくる大家に対して苛立ちを感じずにはいられなかった。階下の中国人の部屋にも謝りに行かねばなるまい。指の先まで刺青の彫られた大男が頭に浮かんだ。なじられやしないか、いや、いきなり殴りつけてくるかもしれない。考えるだけで憂鬱がたてこめた。十一時間働いたあとで軀が怠く、ペダルがひどく重く感ぜられた。タイヤを見るとほとんど空気がなかった。ああ、寒い、寒い、寒い、畜生。俺は歯を鳴らしながら、ホームセンターに着くまでのあいだ呪詛めいた独り言を呟き続けた。
水中ボンドの入った袋を下げて、鈍く痛む脚で三階に上がった。大家は糞でもしているのか中々出てこなかった。ごめんなさいね、ご飯食べてたから、と口腔内で水っぽい音を立てながら大家がようやくドアを開けた。大家は玄関に据えつけられた棚を開け、鍵束の入った箱を出した。二段目の引き出しには回収したばかりの家賃の封筒がいくつか入っていることを俺は知っている。この玄関に立つたび俺の脳裏には、ラスコーリニコフが下宿の階段を足早に降りて俯き加減に往来をウロつく姿が鮮明に浮かんできた。大家は老眼に苦労しながら鍵束をしばらく漁った。勝手に上がりこんでいいって言われたのよ、見てみないことにはねェ、あら、どこだったかしら、ああ、あったあった。大家は軽い足取りで一階まで飛ぶように降りた。咳は二度としなかった。大家は鍵を廻して躊躇なく中国人の部屋に入っていった。
あら、何だァ、いたんじゃない、と大家は頓狂な声をあげた。大家の白髪頭ごしに覗くと、中国女が薄暗い台所に立って生肉を捌いていた。あらお料理中なの、どこよ、どこが漏れてるのよ。赤く濡れた肉斬り庖丁を片手にふり返った濃い化粧の女がわらうのを見て俺はゾッとしたが、大家はサンダルを脱いでズカズカと入っていく。そこ、電気のとこから水が垂れてくるよ。洗面所の床にはバスタオルやシャツが乱雑に積まれていた。目を凝らすと山の中に鮮やかな赤色の生地が浮かんできて、よく見るとパンティだった。中国女は俺を電気屋だと勘違いしていたらしく、大家が二階の者だと紹介するとひどく狼狽し、濃い化粧に汗の浮かんだ顔を赧らめた。俺は気まずくなって、いまからパテで埋めるから、まだ漏れるようなら言ってくれと頼んで部屋を後にした。
ラフランスを冷蔵庫にしまおうと紙袋から出したら、腐りきっていて手指に濁った汁がついた。舌打ちをしてゴミ箱に棄て、靴下だけを脱いで風呂場に入った。もう昼近かった。二種類のパテをヘラで混ぜて、錆混じりのパテの襞に塗りかさねていった。壁はカリフラワーみたいに歪に隆起した。完全にパテを固めるために数時間置かねばならず、俺はシャワーも浴びることすらできずに汚れた軀のまま眠るハメになった。中国女が夕方には横浜に出かけるというから、四時間後に時計をセットした。洗面所で顔だけ洗い、タオルで足の裏を拭いて、ようやくソファに倒れこんだ。が、夢魔の世界に片足を踏み入れたかと思った矢先、ドアが激しく叩かれる音に揺さぶり起こされた。眩暈を感じながら玄関に向かう。執拗に叩かれ続けるドアを開けると興奮した剣幕の中国女が突っ立っていた。また漏れた! そう言いながら中国女が勝手に上がりこんでくる。俺は風呂場では湯を出していなかった、すなわち……。洗面台の下の観音扉をゆっくりと開くと、最初に陰が見えた。ついで鼻を衝く異臭、考える前に、陰の一部が生きているようにゆらりと動いた。腰の横から覗いていた中国女が悲鳴をあげた。アッ、鼠だ! 丸々と太った害獣はあっという間に管の周りにぽっかり開いた穴にすべりこんだ。俺は呆然と立ち尽くすほかなかった。パテの空容器が虚しく風呂場に転がっているのが目に入った。いま、何時だ? そう鏡に映る自分に問いかけるように呟いた。大家は業者を呼ぶのを潔しとしないだろう。まずは俺にやらせ、それから大森にいる息子に頼み、それでも駄目ならようやく工事だ。まずはあたらしいパテを買いに走らなければならない。果たしてその金を大家は払ってくれるだろうか?
少し、眠ってからやるよ、と俺は中国女に言った。わたし横浜だから、夜は旦那に言ってね、と女は同情的な声で言った。強面で挨拶一つ返さぬマフィアのような刺青男。あれに日本語が通じるとは思えなかった。俺はソファに倒れこんだ。もう二度と起きたくないと思った。腐ったラフランスのにおいと薄壁を爪で引っ掻くような幽かな物音が耳鼻に入りこもうとしていたが、あまりに疲れていたからか洗面台下の暗渠に転落するみたいにあっという間に深い睡りの底におちていった。……
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