淵で睡る

 女がドアの隙間から顔を出した。鼠色のマフラー越しにはしゃいだような笑い声をだす。俺は原稿から顔を上げようとしない。ねえ、三日間も連絡がなくて淋しかった? 色々聞きたい? 俺はまっさらな画面から目を離さないまま、微苦笑だけを浮かべてみせる。女が部屋に入ってくる。コートを脱ぎながら俺の背後にあるソファに坐ろうとする。白紙を見られるのが癪で、しかたないから聞いてやるというふうに原稿を畳んだ。淋しかった? と繰り返しつつ女はコートに芳香剤を吹きかける。そんなもんつけたら勘ぐられるんじゃないか、おれの体臭だって独特のにおいがするんだろ。女は肌着を脱いで鼻にあてがった。うん、あんたと違って大人のひとだから、勘が鋭いんだよね、あたしと同じタイプかも、でもKは変な人だね、ほかの男の家から帰ってきたのにさ、何とも思わないの? 俺は七年前よりも肉のついた女の尻を叩いて、そりゃ始まりが同じだったからなァ、と言ってやった。おれの大学の後輩と付き合ってたじゃないか、面識はないけどさ、度胸のある女だと思ったな、人のベッドで平気で電話するんだから、敵わないと思ったよ、おれだけが気が気じゃなくて息をつめてさ、無害な虫みたいにジッとして、おれが大声出したらこの女どうするつもりなんだろうって思ったよ。女は買ったばかりの、胸にスヌーピーの刺繍のある柔らかな生地の部屋着姿になって、ソファに寝転んで俺に見えぬ角度で携帯を見始めた。ひと月前、俺はこの”角度”で男の存在を了解したのだった。

 浅葱色の革のソファに敷いた布団で、俺たちは恋人同士のように眠る。女は俺の上腕にシルクのナイトキャップを被った頭をのせ、冷たい鼻先を胸に埋めてくる。横ざまに抱きつくような格好で、脚を腿のあいだに入れてきて、これこれ、と笑い、俺は餅のように柔らかな頬をつまんだり、撫でてやったりする。やっぱ、これだけはKだなァ、と女が睡たげに呟く。確かに、しっくりくる。それは初めの恋人にも感じたような気がするが、もはや憶えていない。わたしね、他の男とはこれしないんだァ、冷たい、機械みたいなエッチしてね、シャワー浴びてさっさと着替えるの、泊まったのは、いまの彼氏が初めてかな、ねえ、どんな人か知りたい? 俺は女の赫いナイトキャップからはみ出る髪をしまってやった。化粧を落とした女の顔は赤子のように幼い。こいつももう三十か、とふと思った。

 寝ろよ、早いんだろ、またゆっくり聞かせてもらうよ、と俺は言った。だが、またとはいつのことだろう。当たり前のように女がこのアパートに帰ってくる日々は、道義上は終わっているはずだった。不意に、Kが悪いんだ、Kがぜんぶ悪い、と女が肩を慄わせた。頰においていた指が熱に濡れていくのを感じたが、動かせなかった。あたしはKとずっといるって言ったのに、Kが悪いんだ。女は嗚咽した。いちど決壊したら、堰切ったみたいに一晩でも咽び泣く女だった。が、今晩はどうしてかすぐと泣き止んだ。Kが悪いんだ、そう小さく呟いたきり、静かになって、やがて寝息をたて始めた。二十代が終わり、平成が終わる、そして新たなる年号と共に春が来る。終止符を打つには御誂え向きの時期だろう。女も今度ばかりは腹を括っているようだ。いよいよ終わるんだな、と思った。どうも胸を穿たれる心地がするが、それは微塵も表に出してはならぬものだ。目を閉じて、胸の中であらん限り女を祝福した。だが、十年以上のベテラン夜勤者である俺に眠りは訪れない。枕元にいくつか文庫本が転がっているのをてきとうに取った。皮肉にも谷崎だった。薄目を開け、カーテンの隙間から入ってくる外灯の仄かな光でページを繰った。斯波要という男が、俺と似た何とも情けない苦悩を抱いているのに苦笑した。男って奴は、ああ、どこまでも愚かで、まったく救いようがない。……

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