計らずも湯殿行

 アパートの前でトラックのエンジン音が鳴っている。ゴミ収集車だろうか。だとすれば、是が非でも起きて下に降りなければいけない。すでに溢れかえり、白いビニール袋や湿った割り箸が床に散乱し始めている。女がいれば仕事に出る前に持っていってもらうのだが、その女も恋人候補が現れたとかでめっきり顔を出さなくなった。そんなわけで、俺は黄ばんだティッシュを平気でばら撒いていた。そしてまた、起き抜けの性器が血走っている。ゴミ棄てか、自瀆か。自瀆すればゴミが出る、ならばそのゴミと一緒に棄ててしまうのが合理的。俺はスウェットのズボンをおろし、晒された尻にうかぶ鳥肌を撫でてみた。エンジンは唸り続けている。……

 停まっていたのはゴミ収集車ではなく、ただのトラックだった。俺は蓬髪に瓶底眼鏡をかけて、ゴミを両手に間抜けヅラで降りていって誘導員に苦笑された。第一、いまは朝ではなく夕方なのだ。部屋に戻り、まとめたゴミを隅に投げて放尿した。尿は流せたが、便器の上の水道からなぜか水が出なかった。おやと思い、洗面台の水をひねってみたが、やはりうんともすんとも言わぬ。やられた。そう思った。きっと親父が水道料金を払っていかなかったのだ。玄関のポストや親父の部屋を覗いたが、振込用紙は見あたらない。当の本人は年末からフィリピンだし、俺には成す術がなかった。風呂はおろか、顔もベタベタした手も洗えない。正月早々に、糞、まるで運がない。盲の老婆が言ったとおり、神に対する感謝が足りなかったというのか。自然と溜め息が出た。目薬で指を洗い、コンタクトをいれた。女の残していった拭き取り式の洗顔紙で顔を拭った。手指をこすった。不快な陰毛付近のしめりけを誤魔化そうと、股間に数枚のティッシュをあてがった。夜勤まで四時間。たえがたい不快感だ。いっそジムのシャワーでも借りるか、いや、久方ぶりに銭湯に出向こうか……。ヨックモックの青いアルミ缶に入った、ラブホテルから拝借してきたアメニティをポリ袋に突っ込んだ。歯ブラシとタオルと下着をリュックにつめて、小寒い曇り空のなか、消防署の奥の路地にある寂れた赤い看板をめざした。

 昔から脱衣所の床が嫌いだった。立っているだけで、背中にムカデが這っているような不快感が足元から伝染してくる。隣りで脱いでいた背中が染みだらけの肥満した男が、俺を裸を見て照れたように笑い頷いた。下に目を向けてわかった、亀頭にこびりついていたティッシュの欠片を笑ったのだ。いやに重いガラス戸を開けて、ぬめりけのある浴場の床をつま先で歩いてゆく。湯殿にいる無頼漢たちの垢や体液が染み込んだ、所々が茶褐色に錆びついている厭な床を……。椅子と辺りの床に桶で熱湯をかけてから坐ると、返ってきた湯が縮れた毛をひきつれて踵にまといついた。ワックスでこわばった髪を揉みこむように洗った。指が脂でヌルヌルする。性器も口内も誰と何するわけでもないがしっかりと清めた。隣りから猪の鳴く声が漏れてくる。睾丸が床につきそうなほど伸びきった老人が、歯磨きをしながらえずいては泡を吐き出しているのだ。その濁ったあぶくが流れてきて俺の右足に滞っている。穢れを清める場ということは、あらゆる穢れが蝟集する坩堝でもある。この時間によく、挙動不審に辺りを見廻しながら勃起した性器に石鹸を塗って堂々としごく気狂いがいたのだが、出禁にされたかもしれない。夕方ごろに来て、ひたすらに小学生の青臭い躰を目で追う会社員風の男はいまも来ているだろうか? 碌でもない常連ばかりを憶えている。ふと振り向くと、水風呂の主がちょうど潜水を終えたところだった。これもまたベテランだ。長い髭が生えていないのが不自然なくらいアザラシに似ている。この水風呂の主は、何をしているのか十五年ほど前から糀谷近辺を朝も夜もなく徘徊しては、どこにでも坐りこんで人々を眺めて過ごしている。最近は、萩中通り商店街のコンビニ前のテラスが気に入りらしく、夜勤の帰りによく見かける。俺はこの主を街で見ると、どうしてかムカムカして唾でも吐きかけたくなる。日々をまるっきり無意味に過ごしている自分を重ねるからかもしれない。高校生の頃からこの暇をもて余したアザラシを知っていた。街のあちこちに坐って、いったい何を眺めているっていうのだ? 悟りきった哲人めいた顔をしているが、おおかた女の脚や尻を拝んでいるのに違いない。そんなことを考えているうちに、すっかりのぼせてきてしまった。地獄の釜のように墨色に濁った湯からはいあがり、湯冷めせぬうちにさっさと帰ることにした。夜勤の時間も一刻と迫っていた。

 唸り続けていたトラックは消えていた。アパートの周りだけ道路が黒く濡れていた。自転車を立てかけて、二階の部屋に上がった。もしやと思い、洗面所の水道をひねってみる。音を立てて水が迸った。シャワーも台所の洗い場も問題ない。正月早々、水道管の工事だったのだ。怠惰な大家め、報せの紙すら貼りやがらない。だが呆けていたのは俺も同じだ。ゴミを棄てに降りたとき、誘導員の傍に立て看板があったはずなのに、まるで気がつかなかった。トラックの唸りや騒音もさんざ聞いていたが想像が及ばなかった、とんだ莫迦者だ。とはいえ鉄工所や材木加工店なんかが点在する路地ゆえ、多少の騒音じゃ疑問さえもたないのだ。ああ、また時と金を無為にしてしまった。こんなことばかりが繰り返される。俺にはそれをメモ帳にしたため、あたかも缶ゴミをリユースしようとする乞食のように、ちゃちな手記や小説として何とか昇華させようともがくことしかできない。そうだ、俺をかりたてるのは乞食的精神にほかならない。自虐の衣を纏った自己肯定のための文学というわけだ。だが、そうでもしないと、この街で生きていくことは、俺にはやりきれないのだ。……


#小説 #文学 #日記 #退廃 #エッセイ


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