琉金のポンヌフ

 或る夏の朝、夜勤を終え部屋で服を脱いでいると、ソファで寝ている女がクックと肩を顫わせているのが暗がりでもわかった。泣いているのかと思い、ギクリとした。疚しい理由などいくらでもあった。が、女は笑っているのだった。安堵した俺は優しい気持ちになり、屈みこんで頬を撫でてやった。あァ、Kだ、と女はいつものように子供みたいに笑う。頼むからそのドブ臭い口を閉じててくれないか、と枕元で俺が言うと、蟹光線、と言って息を吹きかけてくる。多喜二のタの字も知らない癖して、まったくふざけた女なのだ。風呂に入るために下着を取ろうと箪笥の方に軀を向けると、壁際にある、元々はプリンターの置かれていた海亀の甲羅ほどのテーブルに、何か妙なものが乗っているのが見えた。えッと声をあげ、灯りをつけた。それはドラム缶型の小さなガラスの水槽だった。俺は水槽にはりつくようにして中を覗いた。悪趣味な青い偽の水草に田舎の便器に飾られていそうな蛙の陶器、その中を赤いものが閃くように溌剌と泳いでいた。
 駅の近くでお祭りがあったんだァ、と女が言った。机の上に、金魚の入っていたらしい透明の濡れた袋が、役目を終えたコンドームのように打ち棄てられていた。何だこれ、と俺は茫として呟き水槽を見かえった。尾鰭が天女の衣のように透けている、形のよい琉金だった。ポンちゃんだよ、ポンヌフのポンちゃん、かわいいでしょ? 一昨日の晩に観たカラックスの映画から採られたらしかった。勝手なことして、だれが世話するんだよ、と俺は憎々しげに水槽を睨んだ。ポコポコという酸素の音が、時計の針よりも鬱陶しく耳にまとわりついてくるようだった。この頃すでに別れていたが、女はそれこそ金魚の糞の如くズルズルと家に居着いていた。只でさえ女の私物があることが癪だったのに、生物を飼うことなどたちの悪いマーキングとしか思えなかった。それから女は甲斐甲斐しく水を換えたり、石ころやビー玉なぞを水槽に加えたりしていたが、やがて関西への転勤が決まり、金魚を部屋に残して涙ながらに去っていった。

 金魚の死因でもっとも多いのが、餌の過剰投与だという。与えれば際限なく喰い尽くすポンヌフの食慾を俺は怖れた。節制を強いるのは俺としても不愉快で、水面すれすれにある蓋に頭をぶつけて餌を要求してくるコツコツという音を聞くと、何か自分が虐待じみた悪いことをしているような気がした。その幽かな音は俺の眠りの中にまで入り込んでくることすらあった。
 一年後に女が鬱病を発症して無職になり、このアパートに居候として転がり込んできた時も、ポンヌフはいささかたりとも成長していなかった。陽の光を浴びないせいか、鱗の色もすっかり褪せてしまっていた。俺としては儚い透明がかった緋色の肉体も美しいと思ったが、女は不健康だと嘆き、名もわからぬ雑草のような植物を買ってくると、テーブルを陽が当たる位置にずらして水槽と並べて置いた。それが金魚にどのような影響をもたらすのか、莫迦莫迦しくて訊く気にもなれなかった。間もなく女は埼玉に棲む警官の元に、ポンヌフと、水をやり過ぎるとあっという間に枯れてしまう厄介な植物を残して揚々と去っていった。
 二枚の小さな葉だった植物はみるみる背を伸ばした。女は心優しい警官の暴虐的な性癖に見切りをつけて俺のアパートに出戻りをしてくるなり、大変大変、鉢を変えなきゃ、とトランクの荷解きもせぬまま慌てた様子でホームセンターに駆けていった。ポンヌフの水槽にも、新たなる模造水草と梟の陶器が加えられた。その頃に俺たちのあいだには幾度か烈しい諍いがあった。雀の囀りと共に、アパートの二階の窓から枕や財布やジーンズが舞ったりした。物を拾うために俺が酔った脚で階下に降りると、女が窓から何事かを叫んでいた。通りがかりの老人が財布だけを盗って、老人らしからぬ足並みで路地を引っ返してしまったらしかった。俺は、待てッ、殺すぞ、と叫んで追おうとしたが、脚がもつれて横ざまに路地に倒れてしまい、耳朶をざっくりと切ってしまった。向かいの一戸建てのベランダから七、八歳くらいの少女が不思議そうに俺を見ていた。待て、畜生、殺してやる、殺してやる。首筋を伝って垂れてくる血を抑えながら、とうに見失い、二度と姿を見せぬであろう老人に向かって呟いた。
 肩を慄わせながら部屋に戻ってきた俺は、何か女の大事な物を破壊せずには済まされないほど忿怒していた。水槽の金魚をこの手で握り潰してやろうと思った。水槽に近づくと、女はヒステリックな悲鳴をあげた。ポンヌフは俺が餌をくれるものだと思ったらしく、蓋に向かって例の突進を繰り返し始めた。俺は俄かに情が移り、怒りの矛先を新緑の鉢植に向けた。女が俺の背中に乗っかかったのと同時に、俺の手指は茎の中心を掴んで力を込めていた。無残にも茎は半分にプッツリと折れて、葉は苦そうな汁を滲ませながら砕け散った。女は飼い猫が殺されたかのように咽び泣いた。……

 やがて植物はまたスクスクと背を伸ばしたが、去年の猛暑の時期に下の葉から順に枯れてしまった。女は、もう駄目ね、と言ってあっけなく鉢ごと捨ててしまった。ポンヌフにも異変が起きていた。転覆病という奇怪な病らしく、軀が横を向いたまま死んだように浮かんで動かないのだ。時々、思い出したように鰭をばたつかせるのだが、やはり諦めたようにプカリと水面にせり出てきてしまう。俺はポンヌフを見るたびに厭な気持ちになった。女は水槽をテーブルからホットカーペットを敷いた床に移し、しばらく絶食にすると宣言し、薬剤をまいて水を尿色に変えた。朝には薄めた湯を混ぜてやったりもしていた。ポンちゃん、がんばれ、ポンちゃん、死なないで……。
 互いが休みの週末に、女が来なくなった。警官の次は消防士だという。淋しいでしょ、と女は何もないテーブルに小さなガジュマルの鉢植を置いた。俺はポンヌフの水槽を見るたびに、言いようのない閉塞感に襲われた。お前は何の為に生まれてきて、何の為に生きてるんだ? 小便色の水の中で、時々思い出したかのように軀をゆらめかせるポンヌフ、その様は痛ましいほど苦しげだ。ああ、お前は俺だ、たった一人で、牢獄のような部屋でもがき苦しんでいる、いつの間にかこの社会で転覆してしまって、正常な泳ぎ方を忘れたまま…………。或るとき不意にポンヌフがゆらりと優雅に身をくねらせ、水中にすうっと潜っていった。蛙の陶器に接吻をして、水面近くに上がってくる、そして転覆、だが諦めずに鰭を忙しげに動かしている。やがて軀がまっすぐに傾いたとき、俺の全身は身の寒さを忘れ打ち慄えた。歩き始めた赤子のように、転覆と正常を繰り返し、徐々にバランスと取り戻しているように見えた。ああ、俺は女にポンヌフを連れていけと冷たく言い放ったが、もし病が治ったらなら、ホームセンターに行っていくつか金魚を連れてくるとしよう。名前はそうだ、ポーラ、メルド……、そしてこの趣味の悪いガラクタを棄てて、自然的で古風な流木や苔むした石や生きている水草で飾り立ててやろう。俺はガジュマルの鉢に水を少し垂らしてやると、絨毯に寝転んで、未だ四苦八苦しているポンヌフを見守るうち、いつしかウトウトと寝入ってしまった。

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