見出し画像

連絡

 連絡の頻繁さがそのまま愛情の大きさを表していると考える人がいる。夫婦や恋人同士の関係に多いように思う。家族同士でも、もしかしたら当てはまるケースがあるかもしれない。そのような価値観を両方が持ち、規範を共有できる間柄であれば、互いに衝突することは少ないはず。万が一、片方が相手の連絡無精を非難したとしても、非難された方は「自分は愛のない行動をとってしまった」とすんなり反省できるだろうから、関係の修復も比較的容易だろうと想像する。

 私はそういう考えを持っていなかったので、価値観の違いから、相手を何度か怒らせてしまったことがある。はじめのうちは素直に謝って許してもらっていたが、ある時、自分の考えを率直に伝えて、理解してもらう努力をすべきかもしれない、と考えた。また、その相手であれば、言葉を尽くせばきっと私を理解してくれると思った。話し合いの場を設けて、私の考えを伝えると、相手は願ったとおりの理解を示してくれた。以後、連絡の多寡でお互い言い争うことはなくなった。

 私は自分の両親を愛している。長く健康に生きてほしいと願っている。彼らが死ねば、悲しむだろう。それでも、自分から連絡を取ることはほとんどない。用事がない限り、放っておいている。親とは別居しているが、帰省もほとんどしない。帰っても、話すことは少ない。話したいことが特にないからである。最後に先祖の墓参りに行ったのも、何年も前のことである。互いに盛り上がれる共通の趣味もない。学問のこと、仕事の愚痴は話してもしょうがない。ただ、それでも、私は自分の家族を愛している。言葉に表さなくても、彼らみんなの幸福を祈っている。何も捧げず、何も供えない。ただ、ときどき、「どうか元気で」と心の中で思うだけである。

 そのような考えを家族に打ち明けたことはない。それでも家族は、どうやら私の考えを分かってくれているようだった。これは私の主観である。判断が間違っているかもしれない。部分的に誤解されている可能性もある。むしろその可能性のほうが大きいだろう。それでも、何も言ってこない。私も何も言わない。きっと私を愛してくれているのだろう。お互いが信頼し合っているからこそ、この関係は奇跡的に成立する。

 愛していれば、話したくなるはずだろうか? とりとめもない会話をしたくなるものだろうか? そう感じる人は、その通りの愛情表現をすればいいだろう。相手が同じ価値観を持っていれば、そうすることで愛の深さを確かめ合うことができるはずだ。ただ、世の中には、そう思わない人間がいる。愛情表現についての価値観は多様である。それを忘れてはならない、ということである。価値観が違うからといって、否定したり、攻撃したりしてはならない。あなたが攻撃した相手は、もしかしたらあなたを無言の内に深く愛しているかけがえのない人かもしれない。その相手が配偶者や恋人であれば、尚更である。

 連絡や会話が少ないことで、相手に対して疑心暗鬼になるのはわかる。それが人情というものだろう。若いうちは、特にそうかもしれない。それでも「話したいことがない」という状態は「愛していない」と同義ではない、と私は思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?