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北海道の牧場で働いた時の話

以前、大学を休学して山梨県の農園で働いていた時の話を書いた。
今回は、この少し前の時期の話になる。

前談

時は遡ること2018年の冬。

私は1年間大学を休学し、大学生活の中では出来ない経験をしようと試みていた。その時一番興味があったのが、「生きること」を支える農業や酪農などの第一次産業だった。

私たちは、食物に生かされている。
大体毎日3食、ご飯を食べたり飲み物を飲んだりする。食物がなければ、生きていけない。

野生の動物達は、大半の時間を食物を探すことに費やしている。人間も生きていくために、何千年も前から獲物を捕まえたり、農耕を営んだりしてきた。長い歴史の中、人類がずっと悩んできた食料不足の問題を解決したのは、1950年頃*だと言われている。

(*参照:世界の食料生産とバイオマスエネルギー

そんな生の営みの中で重要な「食」の現場に触れずに生きていくのは、生きていく上で、すごく無責任なんじゃないのかー。

そう信じた私は、休学中の前半の半年間で農業関連の仕事に従事しようと決めたのだ。今まで祖父の家で畑仕事を手伝ったりしたことはあったけれど、住み込みで働くことで労働者として、もっとちゃんと経験して、食について知りたいと思った。

牧場での仕事

住み込みで働くヘルパーを探していた牧場に連絡を取り、2月中旬ごろから働かせてもらえることになった。

まずは2月から本格的に働く前に、年末年始も働くことになった。人手不足だとのことで、大学で一番仲のよかった友人も誘って働くことになり、一緒に北海道の地へ飛び立った。牧場がある中標津は日本で一番酪農が盛んな場所だった。

牧場の牛たち

受け入れてくれたのは、家族経営の牧場で、働いていたのは夫婦と地元のヘルパーと私たちの合計5人。毎回役割は固定されていて、1日2回朝と夕方に同じ作業を行う。朝は6:30~、夕方は16:00~だ。(朝は5:30に起きる)

友人は牛たちを誘導したり、牛舎の掃除をしたり餌を与えたりする担当だった。私は搾乳室に入ってくる牛たちの乳を洗い、搾乳機を取り付けて搾乳機を洗う。牛たちは約120頭いて、これを搾乳室にいる2-3人で分担して行う。搾乳機や乳を洗うブラシはずっしりと重く、それをずっと頭の上ほどの高さに持ち上げているので、かなりの重労働だ。

働きはじめた最初の1週間は常に腕が筋肉痛だった。でも、これがやりたかったことだ。牛たちの乳を洗い、搾乳を見届ける。その後搾乳室の牛糞を水で流し、細々とした仕事を終えたら半日の仕事が終わる。

搾ったばかりの牛乳は、温かくて甘くて、今までで一番美味しい味だった。


話は変わってしまうが、最近牛乳の破棄問題が多くニュースでも聞かれる。過去最悪レベルの「牛乳ショック」と呼ばれ、搾りたての大量の牛乳が毎日破棄されているのだが、度重なる需供給の政策によって、酪農家にしわ寄せがきている状態だ。

一番必要なのは、国による早急な財政支援だと思うのだけど、この記事を読んでくれてる方もぜひ、積極的に牛乳を飲んでいただけたらと思います。牛乳は大地の恵み。



牧場には老いたベーグル犬や野良猫、まだ小さい仔牛や牛糞に集まる蝿たちなど様々な生き物がいた。

母牛が産気づいてきたら、出産用の牛舎へ移動させ、牧場主が牛の出産を介助する。生まれた子がオスだったら、ある程度育てたところで他の場所へ移っていくのだが、それも「食」の重要な一面だ。

友人と牧場の近くの家に住まわせてもらった。彼が書いた日誌

朝と夕方の勤務の間の、自由時間は約4時間。その間は、友人と散歩したり猫と遊んだり、かまくらを作ったりした。辺り一面真っ白の幻想的な風景の中、光り輝く雪の色を目に焼き付けた。

流木と謎の人形のコラボを作ったり

札幌までの夜行バスに飛び乗った夜のこと

最初に現地についた日の写真

年末年始は、何かあっても友人と色々な話をしたりして心地よく過ごしていたのだが、2回目一人で働いていた時期は、あまりうまくいかなくなってしまった。しばらく働いている中で牧場主とそりが合わなかったり、差別的な発言が苦しかったり、誰も知り合いがいない氷点下の北海道の地で一人きりでいることに心を病んできてしまった。

当時を思い返すと、私もとても未熟だったと思う。牧場主側はただ労働者を探しているのに、若い子娘は牛たちと仕事に真正面から向き合うことができていなかった。申し訳なさで5年ほど経った今でも、かなり胸が痛む。


最後の方はかなり限界の状態で、色々あって、とある夜に家を出ていくことになった。20分後までに荷物をまとめてくれと言われ、牧場主は最後の好意で札幌までの夜行バスが出ているという近くのホテルまで車で送ってくれた。

車内で彼に「そんなんじゃこの先生きていけない」「君は人間としてダメだ、生きる価値もない」と何度も言われたことを覚えている。

あたりには何もない、雪景色のホテルの光景を今でも思い出すことができる。ホテルの手前で車から降ろしてもらい、雪道にキャリーケースを引きずって泣きながら走った。

夜行バスはちょうどキャンセルが出たところで、残り1席だった。携帯の充電が全くなくて、でも家族には連絡しないと思ってホテルのフロントで電話を借してもらい、母親に「今から帰るね」と伝えた。

電話のお礼を言ったら時間ギリギリでバスに飛び乗り、1晩中眠れずに札幌まで帰ってきた。北海道を西から東に縦断する間、私はずっと涙が止まらず嗚咽していて周りの人はさぞかし迷惑していただろうと思う。横に座っていたお姉さんがハンカチを差し出してくれて、さらに涙が溢れた。


私が泣いていたのは、牧場主との関係性が悪化してしまったことへの嘆きや人の変わりように心が動揺したためだけではない。人のことは責められない。ただ若いだけで最低で、情けない自分が許せなくて堪らなかった。いくつかの彼の発言に言い返せるほどの地位も力も勇気も、忍耐力もない。そして何より酪農に従事したいと決めたのは私なのに、当時の私は気持ちだけが先走っていて、その牧場で働き抜くだけの気概と体力を持ち合わせていなかった。

牧場主とも、一緒に過ごした牧場主の家族や地元で出会った人々と、もう一生顔を合わせることがないだろうという事実が、その事実を最終的に揺るぎないものにしてしまったのはこの私だという事実が、胸を張り裂けるほど辛くて堪らなかった。

牧場での1ヶ月半の経験で学んだこと

当時フィルムカメラ風の写真にハマっていたので、こんなトーンの写真ばかりだ

今は当時出会った人々の多くに、本当に感謝している。

当時21歳の世間知らずで頭でっかちだった小娘を、一時的にも受け入れてくれた牧場の家族。年末年始一緒に北海道へ働きに行ってくれた友人。泣き腫らした目で帰ってきた私を迎えてくれた母。あの夜に優しくしてくれた見ず知らずの人々。そういった人々の存在があって、今がある。

後半、一緒に働いていた女性と標津をドライブしたときの写真。鹿たちがこっちを見ている

北海道の日々は牛乳を生産する現場の尊さについて学んだと同時に、自分の不甲斐なさや未熟さを知った時間でもあった。当時のあんな自分に出会ってくれた人達、向き合ってくれた人達には、心から感謝の意を伝えたい。全てを肯定するわけではないけれど、ただ過去は過去として。

そして泣き腫らした目で翌朝に眺めた札幌の雪景色を、私はきっと一生忘れないだろう。

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