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2-Ⅰ. 石橋の建設等に関する評価

架設時期について

掛橋の石橋の架橋時期を直接記す史料は確認できていないが、明治の初期に編纂された『福岡県地理全誌』に該当する記録が確認でき、洪水の記録や文久橋の架設記録が残っていることから、嘉永 3年(1850)から江戸時代末の間に架設されたと考えられる。掛橋の石橋の使用石材には数箇所矢穴痕(幅5cm、長さ4cm、間隔8cm)が認められ、矢穴の特徴から19世紀代のものと考えられ、秋月藩城下町にある秋月眼鏡橋が文化7年(1810)に架橋されていることや洪水等の被害による橋の付け替えが、橋を木造から石造に変える契機になることを踏まえると、嘉永3年(1850)の洪水は、仙林寺過去帳にも付記されるほど、当地域にも甚大な被害を及ぼしたことが推察される点で特筆される。

また、『福岡県地理全誌』により、近隣の馬見村で文久2年(1862)に官費で架設された石橋の記載があり、史料内容から花崗岩を用いた石のアーチ橋が推測されるが、表現として「眼鏡橋」の表記を用いてないことから、掛橋に類似するリブアーチ型であった可能性が高い。

以上のことから、掛橋の石橋の架橋時期は、嘉永3年以後の19世紀後半の幕末あるいはと考えるのが最も妥当と思われる。

熊本大学名誉教授 山尾 敏孝氏レポートより抜粋
※現在この橋は見学できません。


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