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モンテッソーリ 子どもの家

昨日は水曜日。

週の真ん中。疲れが溜まる日。

だけど映画館では、

女性が優遇される素敵な日。

心身ともにダークサイドへ堕ちそうな気分だったから、自分を特別扱いしてあげることにした。



『 モンテッソーリ 子どもの家 』には、今、注目されているモンテッソーリ教育の実践がありのままに収められているように見えた。

少なくとも子どもの家でお仕事に取り組む子どもたちの姿は、ありのままだったと思う。

感情や好奇心の赴くままに行動する子どもを観察している時間は微笑ましく、そして、懐かしくもあった。


やってみたい!と思ったときに

チャレンジできる環境。

できるようになりたい!という意欲のまま

何度も練習できる環境。

教えてほしい、手本が見たいと思ったら

周りにお願いできる環境。

そんな整った環境で学習する子どもたちは頼もしく、魅力に満ち溢れていた。


子どもがお仕事している間

一見すると、教師は何もしていないようだ。

でも、安心感を生み出す仕事をちゃんとしていた。

子どもをよく観察し、向き合い、手本を見せることで教室の環境を整える。

教室の主役は子ども。

子どもの家だから。

その家をつくるのが大人。

環境をつくることさえできれば、あとは見ているだけでいい。

じっと観察する。これは大人の仕事だ。


この映画を制作した監督には娘がいる。

そして、1歳すぎの娘がブランコに揺られる姿を見て浮かんだ疑問を発端に、モンテッソーリ教育のドキュメンタリーを撮り始めた。


ブランコに揺られ続ける娘は

降りたがっているのか?

それとも、まだ乗っていたいのか?


娘は言葉を発さない。

降りたいとも、乗っていたいとも言わないけれど

上機嫌でブランコに揺られ続けている。

答えはわからない。

なぜなら娘がその答えをもっているから。

その後の行動は子どもに委ねられている。



映画を見終わって、監督が娘に抱いだ疑問と似たような思いをしたことがあったな、と思った。

だから、映画に映る子どもたちの姿はすごく懐かしかった。

同時に、その姿を奪ってしまっていた時もあったんじゃないかという思いが沸き起こる。

それはその子の人生にとって、ほんの一瞬の時なのかもしれない。

でも大事な一瞬だったかもしれない。運命的な時に繋がる貴重な瞬間だったかもしれないのに。

次はその貴重な一瞬を摘み取らないようにしたい。

今すぐに実践できるわけではない。

簡単に実現できるわけではない。

でもそうしたい。やってみたい。

今はできなくても大丈夫。

私には私で、今できることがあると知っている。

手本を見て真似して、繰り返し練習すればいい。

子どものように。

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