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大震災と情報 映画『福田村事件』レビュー

 関東大震災100年となる9月1日に、ドキュメンタリーの雄としてつとに知られる「作家・映画監督」森達也初の劇映画「福田村事件」が全国公開される。季刊誌『映画芸術』を編集、発行し脚本家としても名高い荒井晴彦監督との初めてのタッグ。その逝去いまだ惜しまれる若松孝二監督のもとに荒井監督と共にあった井上淳一氏に、東映、日活で活躍された佐伯俊道氏も加わってのの脚本は、森監督と荒井監督ら三氏とがそれぞれ別に進めていた企画の協働とのこと。これまで正確にはほとんど知られていない関東大震災直後の政治的誘導による流言飛語ゆえに発生した不条理極まる惨憺たる悲劇を真正面から描き、現在の日本に、日本人に厳しく訴えるいかにも森監督の初劇映画に相応しい重厚深淵な作品である。
 前半は劇映画のたたづまいよろしく舞台となる福田村(現在の千葉県野田市三ツ堀)で絡み合う人間模様が静かに、しかし内奥辛酸に淡々と並べられて行く。それを外支えするように周縁にあって自らの所与の責務と現況との隔絶に葛藤する女性新聞記者と社会主義を唱える書斎型活動家の視点が綯交ぜになるなか、惨劇の当事者となる香川からの薬売りの行商一行が今まさにその渦中に向かい行くという視点明晰な時間が丁寧に描かれる。そしてそこに未曾有の大震災が襲いかかる。
 後半の震災後の人心、世情の混乱は、近いところで阪神淡路や東日本の大震災を知る者にはいささかも他人事では済まされない劇烈深刻さである。新聞記者の苦渋懊悩、社会主義者の諦念慟哭を差し挟みつつ本篇40分の尺を費やし描かれる惨劇は苛烈を極め、森監督言うところの「善良な人が善良な人を殺す」(『A』『A2』から『福田村事件』へ・辻野弥生『福田村事件』五月書房新社 所収)という主題が観る者の胸ぐらを激しく掴むように描かれる。そして自分の内側にも確実に存在する「集団性」の妄信的脅威に戦慄させられる。
 振り返れば「ボランティア」という語が名実ともに根付く契機となった1995年平成7年1月の阪神淡路大震災では、電話不通の困窮をパソコン通信が音信不可となった知人友人の安否を確認する救世主となった。そしてその後瞬く間にインターネットが世界を席巻し、2011年平成23年3月の東日本大震災では、インターネットの普及で定着し始めていたSNSが未知の人々を繋ぎ、明日へと向かわせるかすかな息継ぎをももたらすツールとなった。100年前と比すれば確実に情報共有の環境は「異次元」と称すべき整備が進化拡大しているはずである。ところがその現況は、整ったがゆえに恣意的世論形成を容易に実現させるツールとなり、そればかりか首都圏マスコミのほとんどが相乗り助長する事態を形成している。それについては藤井道人の『新聞記者』や森監督自身の『i・新聞記者』(ともに2019年)で既に警鐘が鳴らされている。日本ばかりではない。アメリカでも、戦禍終息見通しのたたないロシア・ウクライナでも、隣国の大国にあっての香港や台湾を巡る問題でも、北朝鮮でも、進化しているはずの情報を正しく享受、分析理解するリテラシーの深化を何かが、どこかで阻まみ、大きな力の意のままになっている。
 森監督は、恐ろしいのは戦争や虐殺よりも忘却だ、とはっきり言っている(前掲書)。かつて大本営の発信を鵜呑みにし、全土荒廃を余儀なくされたこと、恣意的情報操作に狂奔し惨劇を生み出したマイノリティに対する差別感情、差別構造を我々日本人が無自覚で、努力して払拭しようとさえしていないこと、それらのことを決して忘れてはならない。
 「作家・映画監督」として強い決意のもと世に問うた森達也の初めてとなる劇映画の意味をより多くが観ることで受け止め熟考されたい。

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