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再掲:松家仁之『火山のふもとで』レビュー〜東日本大震災の後、当て所なく支えを求めていた心を慰撫してくれた佳品。

ある方から、では、お前がいいと思う小説はなにか、所謂古典、文学史的作品ではなく、と問われました。それへのお応えとして松家仁之氏の第一作についてのレビューを再掲します。

松家仁之のデビュー作にして、いきなり名作の誉れをほしいままに高評価された代表作を、故あって10年ぶりに再読かつ精読。きっかけは今秋の軽井沢タリアセン、レーモンド夏の家見学と北軽井沢に保養所を有する跡見学園での講演準備。未だに文庫化されない同書を,より多くに知ってほしい、読んでほしい、との強い想いによるものだった。

本作はこの10年間限定でのマイベスト。これほどに上質で、品格抒情に溢れ,心を温かくそっと包み込んでくれるような読書時間が流れる作品は他に類を見ない。恩師への深い敬意と近しく立ち回る快活な女性への真摯な愛情の交錯とが、懐かしさに満ちた時間軸のなかで語り続けられて、読む者は懐古譚のたたずまいに慰撫され、様々な場面で胸ときめかされる。

浅間山の中腹、標高1130メートルあたりに拡がる高原別荘地の澄明な空気感に抱きしめられ繰り広げられる物語は、終始温愛に満ち、優しい。その地での時間保有者を代表した作家、野上弥生子を想起させる老作家の凛とした存在感も物語の透徹した全体像にあまりにもよく相通じ合って、あたかも遠近法の一視点のごとくなり全体に奥行きをもたらしている。「先生」と語り起こされたことで、どこか漱石の『こころ』と気脈通ずる何がが生み落とされたのかもしれない。近しい音色が通奏低音のように奏でられ、読むにあたっての心地良さとなっている。

最終章の仕立ても秀逸。ある意味、ステレオタイプな語りおさめ方ではあるが、それゆえにこそ、ゆっくりと物語の終幕に違和感なく同行できる。

初版は、東日本大震災の翌秋だった。当時、内外の困惑,悲嘆になお心身ともにざわつき続けていたなか本作にどれほど救われたことか。このたびの再読で、あらためて物語の力と魅力とをしみじみ体感したことだった。読むことの至福を堪能できる一冊である。

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