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漣の果てに。 第12話


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「おはようございます」

社長室の前で白尾副社長とすれ違う。
副社長は手を挙げただけで通り過ぎ、目が合うことはなかった。

ウール素材の細身のスーツに暖色系のネクタイ。ノンフレームの眼鏡が良く似合う。相変わらずアオキとコナカのお得意様で、先日ズボンのサイズを一回り大きくした俺とはずいぶんと違う。一張羅のアルマーニのスーツに袖を通したのはもう何年前のことだろう。

海外経験も豊富で頭が切れる副社長の話は、社内外で評価が高い。クリーンな営業で残してきた成績は常にトップクラスで、誰からも反対されることなく副社長まで登りつめた。実力主義の社長とも馬が合うようで、小森建設歴代最強の二枚看板との呼び声も高い。

理系畑の俺と文系出身の副社長は、これまで仕事での接点はほとんど皆無だったが、ここ数年役員会などで顔を合わせるようになった。副社長のプレゼンは簡潔かつウィットに富んでおり、かなり勉強させてもらっている。社内で尊敬している人物の一人だ。よく食事もご一緒させてもらったりしていた。

しかし──。
“あの入札”以降、明らかに俺への態度が変わった。自分では覆せなかったであろう入札を年下の杉森に持っていかれた。いくら黒澤と個人的なつながりがあったとは言え、エリートでプライドの高い副社長にしてみれば、忸怩たる思いだろう。ましてや巨額の不正な金が動いている。

社長の一声で専務に昇格したことも苦々しい。俺が次期社長になるのではないかという噂も耳に入っているだろう……。副社長の後ろ姿をしばらく目で追っていたが、俺は回れ右をして社長室の扉をノックする。


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結婚して半年が過ぎようとしていた。そして、俺は齢を重ねる。「ようこそ三十路へ!」おじさま達の賑やかな歓迎が聞こえてくる。相変わらず輝きは放っていないが、苔は生じていない、はずだ。

雫と過ごす日々。俺の退屈な人生を雫は変えてくれた。守るべきものがあり、支えられていることを実感する。命の甲斐がそこにある。

自分の感情を上手く表に出せない雫。周りの目と戦いながら、これまで生きてきた。だから、自分の弱さを見せることに慣れていない。弱さを見せるとその弱みにつけ込む輩があまりに多かったのだろう。どんな人に対してもまずは壁を作り、自分を守る。その壁の存在を受け入れてくれた人としか雫は関わりを持たない。

雫の友人とも何人か会ったが、みな賢く、距離の取り方が絶妙な人ばかりだった。雫にとっての毎日が心安いものになるようにと、俺もいつも考えている。

通いなれた日吉に新居を構えた。治安と交通の便では言うことなしである。決して広いとは言えない家だが、苦手な家事を一生懸命こなそうとしている雫の姿を見ているだけでも心が和んだ。

窓を開けるとアスファルトが水に溶ける匂いが微かに漂っている。梅雨時にしては湿度は高くなく、少し肌寒い。長袖のシャツを羽織る。サザエさんが今週も変わらずに「サザエでいらっしゃる」ことを確認し、テレビを消した。

ショパンを流し、一昨日の帰りに買ってきたブルゴーニュワインのコルクを抜く。当たり年と言われる2009年の軽やかで芳醇な香りがふんわりと漂う。結婚祝いでもらったスワロフスキーのワイングラスに注いで、料理の仕上げをしている雫を待った。今日の夕食は雫の得意料理ラザニア。ワインにもよく合う。窓ガラスに雨が当たる音をショパンが穏やかにかき消す。

杯を交わし、食事が始まった。雫の好みとは言え、優雅な貴族のような暮らしに多少の違和感を覚える。が、これはこれで悪くない。ワインもショパンも好きだ。ショパンに触発されてか、クラシックのコンサートを見に行こうという話になった。

「何にしようか」

「ボレロがいい」
即答する雫。

「好きなんだよね、ボレロ。人生そのものって感じがするの。夜明けのように静かに始まり、少しずつ楽器が増えていき、ボリュームが上がっていく。単調に同じ旋律がくり返されているように思えるかもしれない。でも、それは常に違う音。人も最初生まれたときは自分の周りに少ししか人がいないけど、でも、だんだんと登場人物が増えていく。同じ日々の繰り返しなんてない。静かに少しずつ、人生の波紋は漣のように広がっていくんだ」

雫の熱弁を黙って聞く。雫がたくさん話すとそれだけで嬉しい。

「曲の最後にしか登場しない楽器があるよね。すごく存在感があって、聞く人の心を捕らえる。その楽器に私は憧れるんだ。ずっと主役である必要なんてないし、目立つ脇役である必要もない。だれかの人生のなくてはならない一要素になれなくたっていい。でも、クライマックスやハイライトの瞬間、私はそこにいたい。その人が輝くために、その瞬間を私も一緒に奏でさせてって叫ぶの」

酒が入ると雫は少し饒舌になるということがこの半年で分かった。
ワインがほどよく開き、葡萄の香りが漂う──外の雨の匂いよりも強く。

「俺も好きだよ、ボレロ」
ショパンの『別れの曲』は変調し、激しく音階を上下する。

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