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『僕たちは嘘をついている。』

 嘘が僕を作っている。言ってしまえば、僕は嘘だ。
 親子ほど離れている僕たちは、まぁうまくやっている。過去は気にしないし、嘘をつくのは、簡単だ。

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 夕方チャイムが鳴り響く。このチャイムって全国共通なのかな。メランコリックなメロディをかき消す喚き声が聞こえたので、読んでいたカフカの「変身」から視線を上げた。小学校の教室にいたような気がする数名が、滑り台やらブランコやら鉄棒やらで駆け回って遊んでいる。四年生にもなって恥ずかしくないのだろうか。

 二時間ほど前に公園に足を踏み入れた幼稚園児は、大きな少年たちに占拠
された遊具を見て哀しげな表情を浮かべて去っていった。

 僕は指定席である柳の下のベンチから、夕陽が照らす愚か者たちの舞いを眺める。

「おい」

 低いとも高いともつかない声が、公園にポトリと落ちた。時間も時間だったからか、十分に不穏な空気を纏っていたその声は、愚か者たちに向けられていた。いつ来たのだろう、公園の中央に中年の男がいた。

「おい、聞いてるか」
 ブランコに乗っていた一人が気づいた。肩がビクンと跳ね上がった。僕らの世代は、知らない人に声をかけられることへの免疫がない。警戒心と恐怖心をないまぜにしながら反応した。

「ど、どうしたんですか」
「君たちは今がすベてか。過去も未来も他者も世間もない」
 突然話しかけられたブランコくんは、どうして良いか分からず、仲間に助けを求めるべく滑り台くんの方へ目をやった。

「おじさん、なんですか。知らない人と話するなって、今は家でも小学校でも教わります。だから、これ以上話しかけると通報ですよ」
 滑り台の上から飛び降りて来た、リーダー格と思しき少年が男と相対した。男は一切、動じてない。

「さっき、幼稚園児が来ただろ。その幼稚園児をここに連れてきた母親の苦労を知ってるか」
 男の問いかけに、愚か者たちは口の端を少し上げながら首を振る。

「あの子がここにやってくるまでにどれだけの苦労があったか、君たちは知らない。幼稚園で友達とケンカして、家に帰っても泣いていて、母親は子どもを慰めながら、洗濯物を取り入れて、さらに同時進行で夕飯の下拵えをやっている」

 少し冷たくなり始めた風が公園を吹き抜ける。遊具が作る影が長い。

「今日は、子どもの大好きな肉じゃがを作るって約束していた。だから、それをチラつかせるも、一向に泣き止まない。途方に暮れた母親は、伝家の宝刀『公園、行く?』を引き抜いた。子どもは泣きじゃくりながらも、うなずいた。

公園に向かう途中、子どもは母親に少しずつ今日あったことを話した。幼稚園の滑り台の順番待ちをしていた。ちゃんと並んでいたのに、次から次へと順番無視をされ、滑れない。もじもじしていると、好意を寄せているミヤビちゃんに『ジャマ!』と言われた。

子どもはショックだったのと、ムシャクシャしていたので、次にやってきた子のことを押し倒した。お互いに一発ずつ殴り合ったところで先生が来てストップ。彼が経験した初めてのケンカは後味の悪いものだった。だから、この公園で滑り台を滑ることには並々ならぬ意義があった。彼の中に現れた未知の自分を受け入れ、消化するために、必ず今日中に滑っておく必要があったんだ。それを、君たちが奪った。奪ったんだよ」

 冷静さを保ちつつ、ひと息に言い切った。呆然と聞く愚か者たち。いつの間にか彼らの顔から汗は引いていた。滑り台くんが口を開く。

「あの子のお父さん、なんですか? すみませんでした。全然気づきませんでした」
 言い慣れた『すみませんでした』が滑らかに口をつく。そして、周りに目配せをして、公園の入り口に雑に止められていた自転車にまたがり帰っていった。ストッパーを跳ね上げるガチャンという音と共に、舌打ちが聞こえたような聞こえなかったような。

 男は足元に落ちているペットボトルのゴミを拾って、肩で息をしていた。ふと、僕に気づく。じっとこちらを見て、ゆっくりと近づいてきた。公園特有のジャリジャリと砂を踏みしめる音が響く。

「さっきの話、聞いてたか」
「うん、まあ」
「合ってるかな?」
「はい?」

 男は肩からカメラをかけている。よく知らないけど、高そうだ。

「あ、幼稚園児のこと。花の写真を撮っていた時にさ、幼稚園児が悲しそうに帰っていく姿を見かけたんだよ。それで公園の中を見たらあの少年たちが遊具で遊んでいた。君もいたよな」

「はい」
 不思議なテンションで話す人だ。

「だいたい、あんな感じかな、と思って。母親は少し疲れている感じだったし、でもすごく優しそうだった」
「つまり、嘘ってこと?」
「そう、うそ」

 なんかニヤッとしたような気がしたけど気のせいかもしれない。木の葉がチリチリと音を立てて足元を通過していく。僕は口を開いていた。

「彼がやりたかったのはブランコだと思うな。ブランコは人がやっていると近寄れない。でも、滑り台を目的に来たのなら、もう少し滑り台に近づくと思うんだよね。そして、彼は来る前は泣いていなかった」

 男は少し目を見張り、一瞬遠くを見て、すぐ僕に向き直って短く息を吐きながら言った。

「いい線いってると思ったんだけどな。でも、それもいい。想像力が最強なんだよ。嘘を真にし、真を嘘にする。これが出来るのは想像力だけだ」

 僕も想像するのは好きだ。むしろ、想像が僕を生かしている。

「俺は圭司。名前、なんていうんだ」
「僕は祥。カメラ、高そうだね」
 圭司はうなずく代わりに突然僕に向けてシャッターを切った。

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「なぁ、祥」
 新芽が吹き始めた柳のごとく、圭司の声も心なしか優しく響く。もう、春か。

「お前、好きな子いる?」
「突然、何」

 でも、圭司が言うことは大抵突然だから今さら驚かない。僕ほど“突然”に免疫のある小学生もいないし。

 これまでも「コアラはナマケモノより寝ている」とか「フランス人はマクドナルドをマクドと言うから関西人と気が合う」とかシャッターを切りながら色んな唐突を僕にくれる。父親が殺されて盛り上がり始めた「カラマーゾフの兄弟」にしおりを挟んで答えた。

「もうだいぶ学校には行ってなくて、クラスメイトの名前も思い出せないけど、たくさん笑っていてほしいな、と今も思っている子はいる。でも、それが好きってことなのかどうかは分からない」

「未知が未知である間は全てが真実なんだ。だから、お前はその子のことが好きなんだよ。いや、正確に言うと好きということにしていいんだよ」

「もし、未知じゃなくなったら? 僕がその子を好きって確信したら?」

「知ってしまうことで嘘が生まれる。気づかなければ良かった、知らなければ良かった、ってことは世界にたくさんあるよな」

 柳の枝は一年中変わらないのに、季節によってしなやかさが異なる気がするのはどうしてだろう。

「僕は子どもだから分からない。でも、確信を持てない今の気持ちは嫌いじゃない」
「だよな」
 圭司はそう言って、手を振り上げて帰っていった。どこに帰るのかは知らない。

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「島に行くぞ」
 公園の真ん中でファインダーをのぞきながら圭司が「おうちに帰るぞ」みたいにつぶやいた。

「えっ」
 リアクションに困ったけど、とりあえず純粋な顔でレンズに視線を送る。カシャ、カシャ。シャッター音は答えをくれない。

「だから島だよ」
 怒り気味に宝島みたいなイントネーションでいうのやめてほしい。明らかに変なこと言ってるの、圭司だから。

「言っている意味が分からない」
 初夏の風がわずかな湿気を帯びて、肌をこすっていった。

「写真に聞けよ。物語は心が決める。どう想いたいか、だ」
 やれやれという感じでファインダーから目を離して言い放ち、ごっつい一眼レフの液晶画面をこっちに向けてきた。

 のぞき込むと、思いっきりカメラ目線の僕がいた。あ、僕、こんな顔できるんだ──。

「行くよ」心が答えていた。

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 海って好きじゃない。風はベタベタするし、砂浜に行ったら靴に砂が入るし。そして、あの暴力的なまでの広さに、無限の可能性を感じてしまう。その広がりが性に合わない。

 圭司もそうなのかもしれない。すぐそこにある海は、毎日姿を変える。平穏。乱舞。明媚。不規則──。そして、今日は、荒れてる。

 遠く水平線まで光を弾きながら波立つその光景は、『雲ゐにまがふ沖つ白波』って感じだ。シャッターチャンス、だと思う。でも、今日はおろか、島に来てからという一週間、圭司は一枚も海の写真を撮っていない。

 後ろに森、前に砂浜、先に海。
 目を瞑ってみたら、圭司の声が流れてきた。

「海は人の想像力を超越している。だから、怖い。つまり、嫌いだ。その広さが全部を真実にしてしまう。海を前にしたら、全部がアリになってしまうんだ。そこに嘘が入り込めない」

 圭司は足元にある石にレンズを向けた。『写真撮ってますよ』っていう雰囲気さえ出せば、表情とか会話の間とかを気にしなくていいから便利そう。

「ある日突然、海に行きたいって言った子がいて、『今度行こうな』って父親は答えた。父親は仕事が忙しくていつしかそんなこと忘れてて、でも、子どもはずっと今度を待っていて、待ちきれなくて、母親と一緒に海に行くんだ。父親は母親からLINEに流れてきた自撮り写真で二人が海に行ってることを知る。

自撮りとは思えないくらい海は綺麗なんだよ。そして、二人とも見たことないくらい最高の笑顔なんだ。メッセージは、『次は一緒に』だった。サムアップのスタンプと一緒にな。でも、〝次〟が来ることは永久になくなった。海がさ、信じられるはずもないことを真実にする──」

 島の砂は無垢だ。常に流れ漂い、新しさを忘れない。

「……そんな物語をさ、想像してしまうんだよ」
 圭司は砂を片手で握ると、そこに砂時計があるかのようにゆっくりと零
した。ゆるやかに風にさらわれる一粒を探すことは、もう出来ない。

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「でもさ、これって見る人が見たら誘拐だよね。キッドナップ」
「大丈夫だ。俺と祥の顔は似てないこともないし、捜索願いが出されることはない。俺の想像では、な」

 島ではどこに居ても、耳を塞いでも波を感じる。波の音は僕をがっちりホールドする。この島にいること、それが僕の存在を確かにする。

「ところで、祥。写真は真実を写してると思うか?」
 いつも写真ばっかり撮ってるけど、圭司が写真のことを話すのは珍しいことだ。

「うん。『真を写す』って書くしね」
「写真は嘘を写すものだよ。世の中は一瞬たりとも止まらないんだ。時間は流れ続ける。現代人は夢を食べる獏のように嘘を溜め込んでは吐き出す。今日もインスタには八千万枚の写真がアップされる。写真を撮ることは、人々のトラウマなんだ。想像することが怖すぎて、嘘の世界を切り取り続ける」

 島の夜は無論、暗い。
 僕の家もいつも、暗い。
 ここは家より、まし。圭司もいる。

 高層マンションはセキュリティも万全。だから、小学五年生が一人で暮らしていても、危険はない。僕の記憶が正しければ、お父さんは四歳の時に僕の前から消えた。「突然は必然」とかよく分からないことを言いながら、僕の頭を撫で回し、消えた。美化されていると思うけど、お父さんはかっこよかった。その後、一度も会ってない。

 お母さんは、段々と家に居なくなった。お父さんが去って少し経つと、週一回いない。しばらくすると、週三回いない。一年後には、月に二十八日はいない。今では月イチで戻ってきている気配はあるけど、僕が部屋でゲームをしてたりすると声もかけてこない。何を以て突然というかは分からないけど、お母さんがこうなるのは必然であった気もする。美人で、社長だし。

 でも、お母さんは「いないだけ」だ。僕は見捨てられたわけじゃない。生活費は常に潤沢にあるし、洋服も僕の成長に合わせてアップデートされたものがクローゼットに追加される。

 そして、僕の家にはいつでも読める本がすごくいっぱいある。新しい本も随時増えてるし、なんとなくだけど、追加されてくる本はお母さんから僕へのメッセージのような気もしている。一番最近追加されたのは、『路傍の石』。ちょっとベタかな。

 食事は冷凍食品が定期的に補充されるし、さすがに僕も料理を覚えた。

 だから、僕はほぼ不自由していないし、見た目もみすぼらしくない。時代的にご近所付き合いも、なし。我が家の嘘に誰も気づけない。

 僕は不幸じゃない。
 そう思うことが僕の実像を確かにするために重要だった。

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 波が高いな……と昨日思ったところだった。

 うねり弾ける波は、もはや高いなんてもんじゃなかった。大荒れだ。スマホとか持ってこなかったから、全く情報がなかったけど、十一年間の経験を総合すると、これは台風。しかも直撃コース。海の奥の方で真っ黒な雲が妖しく膨らんで近づいてくるのが見える。

「想像してなかったな……」
 圭司が無責任につぶやいた。うん、無責任。まったく無責任。サバイバルを生き抜くだけの逞しさは僕らにはなかった。

 圭司は手際良く色々と準備してくれるけど、全く原始的ではなかった。2500ルーメンのLEDランタンで灯りをともし、ソーラーパワーで火がつくコンロで調理して、三分で組み立てられるハイテクテントでぬくぬくと眠る。

 生存能力が低い僕たちの一週間は、文明の利器に支えられていただけで、自然の脅威を前に立ち向かえる備えはない。台風の大きさも勢力も分からない。結構、怖いやつだよ、これ。

「まぁ、でも何とかなるだろ。ほら、島らしく洞窟みたいなところあったから、そこに行こう。自然が怒ってるなら、自然に守ってもらう。何とかなるさという楽観と、何とかしようという心意気さえあれば、大抵のことは乗り切れる」

 やれやれとは思ったけど、洞窟で台風を凌ぐなんて、ヴェルヌの小説が始まりそうでちょっとだけ心が躍った。


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 しかして、洞窟は偉大だった。吹き荒れる風。叩きつける雨。それらを完全にBGMに葬り、僕と圭司に読書に没頭する余裕すら与えてくれた。目には目を、歯には歯を。自然には自然を。

 嵐が去った後の島にいる経験なんて、きっとこの先の人生ですることはないだろう。信じられないくらい海が透明になった。透き通る水、穏やかな波、モザイク状の陽光。

 停泊させていた船も無事だった。圭司が手配したこの船、相当造りが頑丈だったようで、何事もなかったかのように波に揺られている。

「ま、帰るか、そろそろ。俺は満足した」
「そうだね。あの台風で何事もなかったから、なんか達成感出ちゃったね」 

 来る時と同じく唐突に、僕らは十日過ごした島を後にした。結局、圭司がなんのために僕を連れてきたのかは分からなかった。

 でも、いい。
 答えがないことの方が、きっとずっと豊かだ。

 僕は、来て良かった。

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 指定席を奪われた経験をしたことがあるだろうか。指定席とは自分のアイデンティティでもある。それを奪われるということは、自己の崩壊をも意味するのではあるまいか。

──柳の下のベンチが壊れていた。
 先日の超大型台風で飛んできた看板が直撃し、まさかの大破。ベンチって壊れるんですね。

 僕はアイデンティティを失った彷徨える小学五年生。乙女の愛を受けなければ、永遠に幽霊としてそぞろ歩くしかない。こんな僕を愛してくれる少女は現れるのだろうか。ショックのあまりセンチメンタルな思索に耽っていた僕を、シャッター音が引き戻す。

「祥、面白い顔してたぞ。今まで撮ったことない感じだ」

 やられた。
 圭司はしてやったりという感じで嬉しそうだ。圭司のこういう子どもっぽいところ、ちょっとムカつくけど、割と好きだ。そして、僕のすぐ横に来てしゃがみながら言った。

「おー、これはひどい。ベンチって壊れるんだな」
 大袈裟に声を出しつつも、優しくベンチを撫でる。僕のアイデンティティを労ってくれているのか。

「仕方ないさ。形あるものはいつか壊れる」
 そうは言ってみたものの、悲しみは殊の外、大きい。秋の日差しは柳を軽く突き抜けて僕らを刺す。

 モズが高く鳴いて飛び立った。圭司はカメラをすっと向けたがシャッターは切らない。そして、僕の方に向き直って言う。

「壊れてしまったと受け止めるか、全てが新しく始まると捉えるかは……」
「想像力次第、だろ?」

 公園の中央にできた大きな水たまりは秋の高い空を映して、水色に輝いている。透明じゃない水もいい。僕と圭司がたたずむシルエットが揺れながら端っこに映り込んでいた。

 写真に撮らないの? そう聞こうと思ったけど、やめた。
 僕たちは、ここにいる。

「ブランコだったら濡れてても漕げるよな」

 圭司はかばんを僕にパスして、小走りでブランコへ向かった。
 いや、大人、やめとけ。

 追いかけようとしたら、圭司のカバンのファスナーが開いていて、一枚の写真がふわりと落ちた。

 水たまりっ、と咄嗟に手が出た。

 セーフ。
 ホッとして、掴んだ一片に目が向かう。

 見慣れたベンチで本を読んでいる、誰かの写真だった。

 圭司は嘘を持ち歩いている。
 想像力は、最強だ。


 おしまい

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