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『線の引き方』

 
 ぼくは、人生十年目にして早くも警察に追われている。誘拐する側される側。不幸なのはどっちだろう。


 ダンボール内の捨て猫のようにこちらを見つめる瞳。アルカイックな微笑みが張り付いた顔。そして、弱い握力で強く握りしめてくる小さな手。

「おなかすいた。豆乳ヨーグルト食べたい」
 さっきから五度目の発言。

 とにかく遠くへ──。無心で歩いてきたが、落ち着きを取り戻した幼稚園児は、空腹を思い出したらしい。犬の散歩をしている人とやたらとすれ違うし、気づけば僕らの影も長く伸びていた。決して元気とは言えないが、かといって怯えている風でもない。

 ふと持っているかばんに目が行った。
 かばんには、『とんぼ組 ふじいたいむ』と書いてある。
「たいむ?」
「うん。ふじいたいむ。えっと、ママがかんがえた名前だけど、大きな夢って意味なんだって」
 汗ばんだ手を吹き抜ける風は生温かい。遠くでひぐらしの声が聞こえた気がした。


 そう、ぼくはいつものように公園のベンチで本を読んでいた。少し前の台風でお気に入りのベンチが大破してしまったから、対角線上の別の場所が現在の定位置だ。ここからは公園全体がよく見渡せる。公園内の事件はすべてぼくが把握可能。言うなれば公園の番人だ。

『流星の絆』を読み終えた。たまにはミステリーもいい、とひと息ついたところで公園内を見回す。入口よし、出口よし。不審者なし。ブランコよし、鉄棒よし、滑り台よ……あれ?

……さっきからずっといるな、あの子。しかも一人だ。にこりともせず、滑り台を滑っている。降りた後も坂の滑り具合をチェックするような仕草を入れていた。

 滑る、上る、滑る。
 上る、滑る、上る。
 上にのぼっては空を仰ぎ、勢いをつけたり、手でブレーキをかけたりしながら、その作業は三十回近く繰り返された。

 彼はいったい、何を。そして、保護者は。そう思うと同時に優秀な番人であるぼくは、反射的に公園入口に目をやった。

……いた、──不審者が。

 まだ陽が傾いていないこの時間。公園に一人でやってくる中年男なんて怪しすぎる。ほんのしばし静観を決め込んだが、男が幼稚園児に近づいていくのが分かった。滑り台の下で、園児に話しかける中年男。確定不審者。そして、男は何を思ったか、嫌そうにしている園児の手を引っ張った。

 ザッ。考えるより先に足が動き、砂利を踏みしめた音が細かく響く。

「あっ、ここにいたのか。ここの滑り台、どうだった」
 小さい子に警戒感を与えない爽やかさ、小学生ならではの機動力、そして男への牽制を意識した声かけ。うん、完璧。園児のほぼ全意識はぼくの方に向き、目があった。すると、園児は思いの外、鋭く言い放った。

「うん、たのしいよ。スピードもけっこうでる」
「そうかー。いつもの公園よりも気に入った?」
「このまちでは、えっと、えっと、三ばんめかな。さん。たいようこうえんがさいきょうだけどね」
「このおじさんは?」
「しらない。いま、手をつかまれた」

チッ

 憩いの場である公園に最も不似合いな音。
「今、チッて言いましたね。舌打ち。幼稚園児と小学生を前に。これは良くないなー、大人としてどうかなー。しかも、勝手に手をつかむとか、まずいと思いますよ。……ま、いっか。行こう」
「うん」
 どこかに遊びに行く前のようなご機嫌な返事をもらえたので、調子に乗って手を繋いで歩く。後ろから不審者の視線が刺さるが、ズンズン歩く。

 不審者は追ってこなかった。そのまま、足を進める。左手がとても温かい。だんだんと傾いてきた太陽が強く幼稚園児の顔を照らす。まぶしいのか、ちょっと目を細めたかと思うと、おもむろに口を開いた。

「……こわかった……こわかったよぉ」
 ずっと我慢してたのだろうか。足を止めて、大声で泣き始めた。
 怖いことを怖いと言えること。泣きたい時に泣けること。どっちも、ぼくにはできない。

 目の前で幼稚園児に泣かれる経験は、さすがにしたことがない。うろたえて何も考えずにお決まりの一言が、口をついて出た。

「お父さんか、お母さんは?」
 幼稚園児は、泣き止まない。むしろ心なしか泣き声が大きくなったような気さえする。むせび泣く声が、あたりに響く。あたふたしていると、消え入りそうな声がぽとりと落ちた。

「パパは、こないだ、死んじゃった」
 当たり前の質問を当たり前にしていいって誰が決めたんだろう。その当たり前にそぐわない人は、あまりにもたくさんいるはずなのに。予想外や予定外は、人の想像力を奪っていく。嗚咽まじりの声が、再び落ちる。

「……お、おにいさんは、だれ?」
「ぼくは、祥。五年生だよ。色々あって学校には行ってないけど」
「おとうさんか、おかあさんは?」
 そうきたか。動揺を通りこして、思わず吹き出しそうになる。

「お母さんは、いるけどあんまり会わない。お父さんは出ていっちゃった。写真が好きなのかもしれない」
 よく分からなかったかな──。
 頬に涙の跡が残る幼稚園児は下を向く。ぼくは、出来うる限りの優しい声で聞いてみた。

「帰らなくていいの?」
「かえりたくない」
 サイレンを鳴らしていないパトカーが、ぼくらの横を通り過ぎる。ぼくは反射的に顔を伏せていた。


「豆乳ヨーグルト、食べたい」
 六度目です。いい加減、聞いてもいいかな。

「ねぇ、なんでそんなに豆乳ヨーグルト好きなの?」
「パパがね、いっつも豆乳ヨーグルト食べてた。えっとね、豆乳ヨーグルト食べたら、んと、さびしくない」
──聞かない方がよかった、ごめんね。

「祥は、えっと、だいじょうぶ、って聞かないの? えっとね、みんなすぐぼくにだいじょうぶ? って言うんだ。だいじょうぶ、ってどういうことかおしえて」
「大丈夫っていうのは、我慢できるってことだよ」
「うーん。じゃあ、ぼくは、だいじょうぶじゃない。がまんできない」
 我慢できない強さ、か。

「祥は、だいじょうぶ?」
 上目遣いで聞いてきた。

「ぼくも、大丈夫じゃない。我慢はしないようにしてるから、ね」

「なかまだね。だいじょうぶじゃないなかま。へへへ」
 大夢は、弾むような調子で言った。大丈夫って便利な言葉だ。誰もがすぐ使う。でも、その線の向こう側とこちら側の温度は一緒じゃない。線の引き方は、みんな違う。

「よし、豆乳ヨーグルト買いに行こう」
 しゃがんで目線を合わせると、笛を奏でたような「うん」という返事をもらった。


 ピッ。ピッ。ピッ。
 無機質な音が絶え間なく聞こえる、夕暮れ時のスーパーマーケット。顔見知りがいると嫌だから、念のため普段行かない方の店にする。仲良く手を繋いでいるぼくたちは、どこからどう見てもおつかいに来た仲良し兄弟だ。かごを持って、自動ドアをくぐる。なんか、いい。

 スーパーに来て思い出した。夕飯はどうしよう。どうせ今日もママはいない。冷蔵庫の中を思い浮かべる。冷凍食品でもいいけど、今日はちゃんと食べたい。にんじん、玉ねぎ、ハム、たまご。うん、作れる。豆乳ヨーグルトだけ、買おう。

 乳製品はたいてい店の奥の方。大夢は、何も言わずについてくる。おすすめ商品のアナウンスが店内に響く。ヨーグルトコーナーを見渡すと、豆乳のヨーグルトは、三種類くらいあった。

「どれがいいの?」
「いつもこれ。この緑のふたと、わらっているマークのやつ。おいしいんだよ」
「オッケー」
 誰かと買い物に行くって楽しいんだな。いつも、買い物は一人だ。時代が時代だから虐待とかも思われるのかもしれないけど、「一人で買い物えらいわねぇ」とか声をかけられるくらいで、ぼくも愛想笑いを返すだけ。
 豆乳ヨーグルトを二つカゴに入れて、セルフレジへ進む。

「ぼくにやらせて」
 バーコードを読ませるのをやりたいらしい。背伸びしても届かないから、持ち上げてあげる。軽いんだな、幼稚園児って。

 ピッ
 無事に完了。大夢は満足そうだ。リュックサックにしまって帰ろうとすると、セルフレジの脇に立っていた店員が話しかけてきた。

「お兄ちゃん、優しそうでいいわねぇ」
 どうしてスーパーのおばちゃんって一言かけなければ気が済まないんだろうか。

「うん、とってもやさしいよ」
 嬉しそうに答える大夢の顔はなんだか晴れやかだ。『重力ピエロ』も『細雪』も『カラマーゾフ』も、小説の中のきょうだいは、お互いになんか抱えていることが多くて、ちょっとめんどくさそうだなって思ってたけど。

 スーパーを出て、通りを歩く。車のヘッドライトが眩しい。
 豆乳ヨーグルトは、どこで食べよう。

「うち、くる?」
 思わず聞いていた。
「うん、いく」
 大夢がすかさず答えたので、連れて帰る以外の選択肢がなくなった。

『迷宮の原理は自分の内側にあって、それは外側の迷宮性と呼応している』みたいなことを村上春樹が書いていた。そもそも外側の状況が混沌としているので、自分がどうしたいかで決めればいい。
 何を信じるか、だ。
 ぼくは、ぼくを信じる。

「へぇ、祥の家は本がいっぱい」
 高層マンションに入ったのは初めてだと言う大夢は、エントランスからテンションが高い。
 キラキラしてるー、でかっ、エレベーターキュイーン、指置いたら鍵が開いた!

 めったにママは帰ってこないけど、このセキュリティならなんの心配もいらない。食事(冷凍食品)も、成長に合った服も、ちゃんと準備しておいてくれるし、生活費も潤沢。ぼくがみすぼらしくなることはない。

「なんか食べる? オムライスなら作れるよ」
「オムライス! 大好き!」
「じゃあ作るから、ちょっとテレビでも見て待ってて」

 一人の時はあまりテレビつけないけど、ちょうどドラえもんがやっていたので、大夢をソファに案内して、支度にかかる。いつもより少し多い材料がなんだかくすぐったい。誰かのために料理するの、初めてかも。

 野菜を手早く刻み、強火で炒めたご飯を一気に薄焼き卵で包む。
『ドラ顔じゃんけん』のタイミングで完成。

「大夢、できたぞー」
 声をかけたけど、返事がない。見に行くと、よだれを垂らして眠っていた。どうしよう。豆乳ヨーグルトも食べてない。

 寝室からタオルケットを持ってきて、そっと掛けてみる。寝息が優しい。後で食べるかな、なんて思って、オムライスにゆるくラップをかけたら、ぼくもなんだか眠たくなってしまった。


「祥、おきて! ねぇ! オムライス、食べたい!」
 家で名前を呼ばれるすることが珍しすぎて、状況がつかめない──そうか、そうだった。
 驚くべきことに朝日が差し込んでいる。寝落ちなんかしたことないのに。

「オムライス、オムライス」
 手拍子とともに煽ってくる彼は、ここに泊まったということになる。

 待て。
 これは、もしかして。

 うん、立派な、誘拐だ。

 さて、どうしよう。
 十歳が誘拐犯になっても、刑法上は罰せられることはない。ただ、児童相談所送りは免れないだろう。無邪気な顔で、「遊んでいただけです」と言えば、乗り越えられそうな気もするが、「お父さんかお母さんは?」の質問を受けることは避けたい。答えられない理由がある。とりあえず、大夢を無事に返すことを考えよう。

 大夢はソファで飛び跳ねている。気づけば、色んな本が散乱している。幼稚園児、恐るべし。
「オーケーオーケー。オムライスは食べよう。でもさ、大夢。大夢は、家に帰らなかったんだぞ。ママ、めちゃくちゃ心配していると思うぞ」
 年長者の落ち着きを見せて、ゆっくりと諭すように伝える。幼稚園児はきょとんと答えた。

「でも、えっとね、きのうね、ママは『ママを困らせないで』って言ったんだよ。えっと、ぼくがいると困るみたい」
 さっきまでの元気な顔が急激に曇る。小さい子は、表情の変化が激しい。

「何があったのか、聞かせてもらえる?」自然に聞けた。
「……いいよ」
 口をとがらせて不満をあらわにしながらも、大夢はポツリポツリと語り始めた。

「ぼくはね、えっと、お兄ちゃんがほしかったんだ。えと、仮面ライダーリバイスはね、お兄ちゃんがすっごくカッコいいんだ。だからね、えっとね、ぼくを助けてくれる、やさしくて、つよくて、すごいお兄ちゃんがほしかったんだ。だから、んと、それをママに言ったの」
 カーテン越しの朝日は、さらに力強さを増してきた。ちょっと暑いくらい。

「そしたらね、えっとね、ママがね、『ぜったいムリ』って言った」
「……うん」
「ぼくは、お兄ちゃんにしかなれないんだ。ずっと、死ぬまで、えっと、ぼくに、お兄ちゃんは、できないんだって」
 大夢が涙を溜め始める。ぼくは何も言うことはできない。

「ママはね。すっごくやさしいんだよ。大好きなんだ、ママのこと。いつもいつも、ぼくのおねがいを聞いてくれるんだよ。でもね、えっと、そのママがね、『ぜったいムリ』って言ったんだ。その時のかおがすごくこわくて……」
「ママが無理って言ったのが嫌だったんだね」
「うん。目の前がまっくらになっちゃった。ほしい、ほしい、お兄ちゃんほしいって泣いちゃった。そしたらね、えっとね」
 大夢が言葉に詰まる。つらいことを思い出させてしまっているのだろうか。

「ママが、ママが……『ママを困らせないで』って」
 大粒の涙が勢いよく滑り落ちる。

「それで、ぼく、家を出ちゃって。えっと、そしたら、こうえんにいたんだ。昨日の」
「そうか。大夢はママが好きなんだね。今頃、ママはすごくすごく心配しながら、大夢のこと探しているよ。ママのところ行こう」
 うめくような小さな声が漏れる。

 しばしの沈黙の後、大夢がキッとこちらを見て言った。
「うん、わかった……でも、えっと、オムライス食べるから温めて。豆乳ヨーグルトには、んと、はちみつをかけるんだよ」
 自信作だ。ぼくも食べてほしい。そして、少しでも力がつくといい。

 大夢はぺろりとオムライスを平らげた。歯みがきをさせて、マンションを出た。
 大夢の服は昨日と一緒だけど、ラルフローレンのいいシャツ着てるから、よれていない。色白の肌に、発色のいいオレンジがよく似合っている。そういえば、ぼくも、大夢と同じシャツ持ってたな。ママが買ってくれたやつだ。今日、着て来たら良かったなと思ったけど、もう遅い。

 まずは、昨日の公園まで戻ってみる。気温も高くないし、風も清々しい。金木犀の香りがいい感じだ。
「ねぇ、祥。すべり台やりたい」
「いいよ。帰り道、思い出せるといいね」
 大夢は、一目散に滑り台に向かう。そして、勢いよく駆け上り、ぼくを呼んだ。
「祥もきてー」
「おーう」
 ぼくも小走りで駆け寄る。大夢はこっちに手を振っている。滑り台の下に来た時に大夢が言った。
「えっとね、すべり台の上だと空がちかくなるんだよ。祥ものぼってきて」
 促されるままに、ステップを上る。何年ぶりだろう、滑り台。
「のぼるときは、手すりをもたないとあぶないよ」
 大夢の顔が逆光で見えない。
「すべり台って、まっすぐのもあるしー、まがってるのもあるしー、えっと、ふにゃふにゃのもあるんだ。それでね、えっとね、スピードもはやいのもおそいのもあるんだよ。えっとね、ぜーんぶちがっておもしろいんだよ」
 隣に並んだ。
「そうか……人生みたいだな」
「ジンセイ? うん。すべり台はジンセイ」
 そう言いながら勢いよく滑っていって、こっちにピースしてくる。


「こっちかな。でも、もうすぐ駅だぞ」
 大夢のあやふやな記憶を元に歩いてきたが、どうにも正しいとは思えない。かといって警察にお世話にはなりたくない。なんとかこっそりたどり着いて、立ち去りたい。

「ねぇ、祥。……ぼくの夢、祥はかなえてくれる?」
「どういうこと?」

「……お兄ちゃんになって」
 冗談を言っているわけではない。大夢の目は真剣だ。
 無理なこと、難しいこと、無茶なこと。
 諦めてしまうことや切り捨てることは簡単だ。でも、もしそこに抗う道があるなら、抗うことで意味が生まれるなら、そこを通ってみたい。想像力を働かせて、大夢のことを考える。

「分かった。大夢がママのところに戻りたくなるまで、お兄ちゃんになるよ」
 大夢がひときわ強くぼくの手を握った。

「ぼくね、えっとね、仮面ライダーが大大大大好きなんだ。だから、えっと、仮面ライダーショップに行きたい。祥、つれてってくれる?」
 ずいぶんな無茶振りだな。でも、うん、抗え。

「どこにあるの、それ?」
「わかんない。とおく。ママは、つれていけないなーって言ってた」
 そうなのか。まぁ、まずは調べてみよう。スマホを久しぶりに取り出した。
 画面を傾けるとヤフーニュースの通知が飛び込んできた。

『神奈川県横浜市戸塚区で昨日の夕方から藤井大夢くん(5)が行方不明。神奈川県警は三十人体制で捜索中も以前行方が分からず。誘拐事件の可能性もあるとして捜査』

 音を立てて血の気が引いていった。顔面蒼白という瞬間をこの先の人生で味わうことはあるのだろうか。

「祥、どうしたの? 早く行こうよ」
「う、うん。大夢、これ。ニュースだよ。みんな大夢のこと探してるよ」
「えっ……ぼく、ニュース? ……どうしよう。えっと、えっと──」
 その場でかがみ込む大夢を前に、ぼくも考える。どうする──。幸いまだ人通りが少ない住宅地だ。でも、どこかから見られているんじゃないかって、気になって仕方がない。
 突然ぼくの手をとって、大夢が走り出した。

「行くよ、お兄ちゃん。ほら、仮面ライダーショップ」
 ぼくも、歩を進める。
 横に並んだ大夢の頭を撫でるようにして、幼稚園の帽子を深くかぶらせた。警察に追われる経験も、悪くない。
『ゴールデンスランバー』の逃走劇が頭を掠めた。


 仮面ライダーショップは東京駅だった。戸塚駅からなら四十分弱。子ども二人での電車は、否が応でも注目を浴びてしまう。ぼくたちはなるべく家族づれの近くにいて、一緒の家族を装った。
 電車に揺られる時間は普段なら絶好の読書タイムなんだけど、まったく気の休まらない四十分を過ごし、なんとか無事に東京駅に着いた。改札を抜けてそのまま駅地下を進むと、念願の仮面ライダーショップが見えてきた。
 思い描いていたものとはちょっと違って、ずいぶんと小ぢんまりとした店だったが、大夢は発狂寸前だ。

「ゼロワン! ダブル! ジオウ! えっと、えっと、フォーゼも。うわー」
 グッズを手に取り、置く。狭い店内を駆け回る。これ、すごいんだよ。ゲイツはね、映画だと大活躍するよ。ドライブとマッハは超高速なんだ。エグゼイドォォォ。店員も微笑ましく見ている。
 でも、長居は良くない。

「大夢、もうちょっとしたら帰ろう」
「えー、やだやだー。ずっと居たい。もっと見たい」
 そうだよね。本当に夢の世界に来たみたいなはしゃぎ方だもんな。でも、ぼくは、つかまるわけにはいかない。

「大夢、あんまり高いのは買えないけど、一個なんか買ってあげるよ。そうだな……シールとか、いいんじゃないかな」
 咄嗟にシールの値段を見ると250円。まぁ、このくらいなら誰にも文句は言われないだろう。

「えっ! いいの! うわー、どれにしようかなぁ。ぜんぶほしいけど。いちばん好きなのは、エグゼイドなんだけど。あっ、ママはダブルが好きなんだ。ジオウもいいなぁ。うーん、でも、今はね、やっぱり、リバイス!」
 ピンクと紫の仮面ライダー。これが、リバイスね、お兄ちゃんがカッコいいやつ。いいだろう。

 レジに持っていき、会計を済ます。特製の袋に入れてもらって、大夢は超ご機嫌だ。もう、いいだろう。戻るか。横須賀線に乗ろうと、丸の内方面に歩いていく。

 あまりの人いきれに辟易としながら進むと、丸の内口のオーロラビジョンに突如大映しされたのは、泣いている女性の姿だった。

『息子が出て行ったのは、私のせいなんです。あの子を傷つけてしまった』

 テロップが伝える藤井大夢くん(5)のお母さんの言葉。
 弾むようだった大夢の足が止まる。

「ママ……」
 繋いだ手が小刻みに震えた。

「ママ、泣いてる。ママ、困ってる。ぼくがいなくて、困ってる」
 顔が歪む。肌に張りがあるからか、目から溢れた涙は撥水加工された傘のように大きく膨らみ、光の一筋となって頬をこぼれ落ちた。

「祥、ぼく、かえりたい。ママのところに、かえりたい」
 目に力があった。そして、言葉にも。

 ぼくの役目は、終わった。


 戸塚駅のバスターミナルから川を渡り、東へ向かう。大夢は、完全に道を思い出したようだ。

「ぼくのうち、もうちかく」
『太陽公園』と銘打たれた公園に差し掛かったところで大夢が言った。公園の脇にパトカーが停まっているのも確認できた。車内に人の姿は見えない。

 昨日、公園で不審者がしようとしていたことと、ぼくがしたことに違いはあるのだろうか。やったことは誘拐。でも、線の引き方によっては、それは異なる意味を持つ。誘拐する側、される側。お互いの線の位置はきっと違う。

 そんなことを考えていると、大夢が立ち止まり、ぼくの方に向き直ってまっすぐ目を見てきた。Time is over. 大夢は、向かうべきところを見つけた。

「楽しかったよ、ゆかい。えっと、祥は、魔法使いだよ! ぼくのお兄ちゃんになってくれたんだ。でも、もう、ショータイムはおわりだね……えっと、バイバイ……バイバイ」

 点線、曲線、直線──。
 大夢が引いた線は、どんな線だろう。ぼくはぼくの線を引く。

 信じることと真実は、いつも一緒じゃなくていい。

「たいむっ! 大夢! 大夢……」
叫ぶ女性の声が聞こえた。

「良かった、ほんと…に……」
掠れるような女性の声を確認して、ぼくは弟の・・小さな背中に背を向ける。
──さよなら。


 虚無。

 今までだって、ぼくは、ほとんど一人で生きてきた。もちろんママや、間接的なパパの支えはあったと思うけど、毎日のほとんどを一人過ごしていることは事実だ。
 そのぼくが、えも言われぬ寂しさを感じている。

 あの日、マンションに帰って、部屋の電気をつけると、大夢がきれいに平らげてくれたオムライスの皿があった。パパがいなくなっても、ママに会えなくなっても泣いた記憶はないけど、ぼくは、その皿を手にとると、声を出して泣いてしまった。

 たった一日の出来事がぼくをこんなにも揺さぶったことに驚き、困惑した。しばらく動く気にならなかったけど、気を取り直して、ぼくは今日も公園に行く。そう、それがぼくのアイデンティティ。

 いつものベンチ、いつもの場所に向かっていると、遠目で何かが定位置に置いてあるような気がした。



 座ろうとしたその場所には、ピンク色と紫色の仮面ライダーのシールが、不器用に貼られていた。いつもと同じばかりがいいわけじゃない。

 そのシールのところを一人分空けて、ぼくは隣に腰掛けた。
 


おしまい 

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