漣の果てに。 第8話
しばしの沈黙を破ろうと親父がもごもごと何かを言ったとき、廊下でスッスッともトコトコともドンドンともつかない複数の足音が聞こえ、仲居さんの声とともにふすまは開かれた。下にレールがついているかのように音もなく中央から右手へとスライドする。緊張が一瞬にして最高潮に跳ね上がり、その勢いで親父と俺は同時に立ち上がる。
現れた黒澤一郎。さすがの威厳。漫画なら横に「デーン」という効果音がつくところだ。
顔が皺くちゃになるくらいの笑みが張り付いている。一歩下がった隣には──黒髪の美少女がいた。漆黒の目に俺の視線が吸い込まれる。微笑みかけようとするが、黒澤一郎の大声で視線の邂逅はかき消された。
「どうもどうも、杉森君。久しぶりだねぇ」
手を差し出しながら親父に近寄る。
「黒さん、ご無沙汰してます。本日はお呼び立ていたしまして申し訳ございません。ご都合つけていただき、ありがとうございます」
腰を九十度に折りながらがっちりと両手で握手し、慇懃に親父が挨拶する。
黒澤が俺の方に向きを変え、柔和な笑みを湛えながら再び手を差し出す。
「圭司くん、黒澤一郎です。はじめまして。お父さんとは学生時代に親しくさせてもらってました」
「杉森圭司です。父が長いことお世話になりました。お会いできて光栄です」
分厚い手。東北育ちの苦労人の手だ。手から伝わってくるパワーを感じる。そして、まだ自己紹介をしていないのに俺の名前を知っていた。事前に親父から聞いていたにしても、これが出会いを大切にする黒澤一郎の信条か。我知らず好印象を抱いている。
そして、隣の少女。いや、少女というのも失礼か。歳は……二十五くらい? もっと若くてもおかしくないが。シャンプーのCMに出てきそうな黒のロングヘア。化粧は薄めだが、顔の造作ははっきりしている。凝視せずに観察する。やれやれ、男の悲しい性(さが)だ。ほんのりと香水が香る。
「娘の雫だ。今年で二十四になる」
「……黒澤雫です。よろしくお願いします」
か細いが、それでいて芯のある通る声。お辞儀をする姿も上品だ。
「はじめまして。お父様の大学の後輩の杉森です。いやぁ、美しいお嬢様ですね。少しびっくりしました。こちらこそよろしくお願いいたします」
親父が丁重に挨拶する。頬が赤い。いい歳して(照)見たいなのはやめてほしいぞ、親父。
「びっくりはないんじゃないか、杉森君。私から美人は生まれないとでも言うのかね? なぁ、圭司君」
豪快に笑いながら、黒澤一郎が言う。
「いや、でも正直に、驚くほど美人ですね。お父様も鼻が高いのではないですか」
微笑を浮かべ、相手のキャラを探りながらしれっと言ってみる。
「そうかね、そうかね。それほどでもないがね。ガハハ」
すっかり上機嫌だ。よし、つかみはOK。親父の(照)のおかげだな。
「どうぞおかけ下さい」
立ち直った親父が勧め、一同は席に着く。
瓶ビールが運ばれてくる。親父の事前情報によれば、黒澤一郎は最初の一杯はビール。二杯目以降はその店で一番いい日本酒を飲む。あの見た目で酒が弱いはずもなく、当然のごとく酒豪だ。今日の会計は誰が持つんだ? ふと心配になったが、そこは親父のカンパニーカードだろう、と勝手に決めつける。
親父がすかさず、黒澤にビールを注ぐ。
「いやいや、すみませんな」
黒澤の快活な様子は続く。
「ビールでよろしいんですか?」
俺は雫さんに一応確認を取る。
「はい。一杯目は。ありがとう」
7:3の黄金比率を忠実に守りながら金色の液体をコップに注ぐ。それぞれ杯を返してもらい、乾杯の準備が整った。
「いやぁ、楽しい会になりそうですな。それでは、久しぶりの再会と、二人の若者の前途ある未来に乾杯」
黒澤一郎の発声で杯が交わされる。四つのグラスが触れ合う音は、美しい鐘のようでも、自転車のベルのようでも、遠くで鳴る踏み切りの音のようでもあった。
前菜が運ばれてくる。
瓶ビール二本はあっという間に空になった。ふすまを開けて手を二回叩く。仲居さんが数秒で現れる。中には聞こえないように囁いた。
「黒澤さんが召し上がる日本酒は何がよろしいでしょうか」
「本日は『南部美人』の純米大吟醸か『十四代』の龍泉が入っておりますので、いずれかがよろしいのではないでしょうか」
「では、『十四代』を」
十四代龍泉が飲めるのか! 南部美人も捨てがたいが、龍泉が飲めるところは少ない。心は浮き立つ。
「みなさま同じでよろしいでしょうか」
親父がダウンする姿が目に浮かんだが、飲ませなければいいだけの話。
「はい」…そう答えようとしたが、雫さんのことが気になった。席に戻り、聞く。
「雫さんはお飲み物は何になさいますか?」
「私はワインがいいけど……。場違いでしょうか」
控えめな声。
「いえ、そんなことはございません」
廊下で聞いていた仲居さんが穏やかな笑みを浮かべて答える。
「外国人のお客様もいらっしゃるので、赤・白ともに豊富に取り揃えてございますよ」
「では、お願いします」
「あっ、では私もワインを。銘柄は……そうですね。お料理に合う感じで軽やかな味のものを。赤・白のセレクトもお任せします」
「かしこまりました。料理は淡白な味のものが多うございますので、フルーティーなものがよいかと思われます。私どもの方で選ばせていただいて、お口に合わなければワインリストをお持ちします」
十四代の夢は崩れたが、雫さんに一人でワインを飲ませるわけにはいかない。そもそも俺もワインの方が好きだし。
刺身、お椀と出てくる。親父と黒澤一郎はゴルフとプロ野球の話で盛り上がっている。黒澤一郎は楽天イーグルスの後援会長でもある。大リーグに抜けたエースについて「時期が良くない」と嘆き節だ。
雫さんは話に入ることもなく黙々と食事をし、親の他愛もない話に耳を傾けている。俺は時折話に乗るが、ゴルフとプロ野球はあまり詳しくない。やはり酒の席にゴルフの話題は欠かせない。もう少しゴルフの世界を知る必要がありそうだ。二杯目のワインが空になろうとしている。
「ちょっと失礼」
親父がトイレに立つ。
「あっ、では私も」
示し合わせたかのように黒澤一郎もそれに続く。
「黒さん、庭で一服してきましょうか。奥にちょっとしたところがあるみたいですよ。雫さんの前では失礼かもしれないので」
親父が言う。TBS前を出てから一時間以上が経過している。ニコチンは完全に切れている頃だ。
「そうしよう、そうしよう。娘の前で吸うとすぐに不機嫌になるのでね。では、しばらく」
親父と黒澤一郎が部屋を出る。お話し合いの始まりを予感させる。何を話すのか。何が決まるのか。
部屋に取り残された俺と雫さんと沈黙さん。
いずれにしても親父には色んな意味で早く帰ってきて欲しかった。
雫さんはゆっくりとワインを傾け、物思いに耽る。
俺自身、静寂は嫌いではないが、今日の席ではしじまと仲良くしない方が良さそうだ。勇気を出して語りかけてみる。
「雫さんは今はどういったお仕事をされているんですか」
明るくそれでいて媚びていない、この場に適切かつ的確な声が出せた。合コンでは鉄板の1球目を投じる。
「今? ……仕事やってない」
ぶっきらぼうとも不機嫌ともつかない声で、こちらをまっすぐ見ながら答えてくれる。
おぉっと。1球目──ボール。アンパイアが空を切る仕草。めげずに2球目。
「そうなんですか。何か勉強されていたりするんですか」
「そう。実は大学院生。イタリア文化史の研究中。次の三月で卒業だけど就職先も決まってない」
少し困ったような顔。
「イタリアですか。幼少の頃は何度か行きました。でも、観光客と同じレベルでしか話出来ないですから、ちょっと雫さんに話を合わせるのは難しそうだ」
にこやかに言ってみる。
「お気づかいなく。みんな、私を黒澤一郎の娘だからって距離をとるから」ちょっと諦めたような顔。
「気を遣っているわけではないですよ。何か共通の話題がないかな、って」
平然を装えている……はずだ。
雫さんはゆっくりと首の角度を変えてふすまの外に目をやる。ややあって俺のほうを向き直り問いかけてきた。
「ふーん。じゃあ、あなたは何の花が好き?」
わずかな思案顔。
「花ですか。うーん、季節的にもスミレとか好きです」
突然の花の話題にびっくりしたが、今朝家の近くのスミレがきれいだったのを思い出す。
「色は?」
「青とか黄色とか」
「ふーん。割と堅実なんだ」
こころなしか嬉しそうな顔。
「堅実? そうですかね。野に咲いている感じとかは好きですよ。雫さんは?」
「私はね、……桜。──気まぐれなんだ」
「あ、もしかして花言葉ですか。へぇ、花言葉好きなんですね」
ぴんと来た。桜=気まぐれは聞いたことがある。続けて言う。
「桜にも寿命があるんですよ。六十年とか言われてますけど、百年以上生きているものもあるし、最高齢は百二十年くらいの老木があるそうです。何だか人間みたいですよね」
話をつなごうと知っている知識を総動員。
「へぇ、良く知ってるね」
少しだけ驚いた感じで雫さんがわずかに微笑む。笑うと美しさに磨きがかかる。
「花見とか行きました?」
「桜は好きなんだけど、散るのが寂しいから見には行かない。日本ではどこでも桜が見られるから、いつも歩いている道にあるので十分。日常がその時期だけひときわ輝いて見えるから。咲いて散るのを背伸びして一生懸命見るのとかは好きじゃない」
少し会話が弾んだことにほっとした。さっきから居心地良さそうに鎮座していた沈黙様に一矢を報いることができて満足する。雫さんの表情も幾分か和らいだように見える。卓の下でガッツポーズ。美人と会話をするのはそれだけで楽しい。
随分前にお互い空になったグラスが、向き合った二人の間に屹立している。ブルゴーニュの赤ワイン。ミディアムボディでありながら程よい酸味があり、和食に良く合った。
次はワインの話でもしよう。
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