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漣の果てに。 第7話

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赤坂。TBSのオールスター感謝祭で芸能人が走り回っていた街。正直それぐらいしか印象にないよね、実際。と思いながら、赤坂見附の駅を降りた。早く着きすぎたのでちょいと下見。青山通りに沿って歩き、お話し合いが行われる予定の料亭に向かう。

吹き抜けるビル風。家を出るときは晴れていたが、いつの間にかどんより空が重い。冷たい風が春の侵入を阻む。

寒がりの俺だが、今日は一張羅。先日オーダーメイドしたロロピアーナのジャケットの上は何も着ていない。「寒いなぁ。やだなぁ、寒いの」ぶつぶつ言いながら、ふと面を上げると鹿鳥の本社。皮肉だね。こんなところに本社があったのか。

みすじ通りを左折。東京都内とは思えない格調高い和風の佇まい。おぉ、ここが噂の銀龍か。多くの政治家の「おぬしも悪よのぅ」がくり返された聖地。よりによってこんなコテコテの場所をセレクトするとは……。親父、相変わらず名前とブランドに弱いな。

入ろうかと思うが、まずはスルー。親父からのメールには「17時15分TBS前」とあった。俺にはそこしか分からないと思われているようだ。田舎物扱いするなよ、親父。こちとら東京都民だぞ。踵を返し、来た道を戻った。

人なのか何なのか分からない赤いシンボルマークの下に着く。聳え立つ怪しげな形の建物。誰か芸能人いないかな、と周囲を見渡すも、オーラは見えない。

冴えないおじさんが煙草吸いながら一人遠くを見ていると思ったら、もちろん親父だった。

「やぁ、とうさん。待った?」陽気に声をかける。
「いや……さっき着いたところだ……」えっ、その声の奮えはいったい?

「どうしたの、声ヤバいけど」
「あ、あぁ、少し寒いからな。お前こそ大丈夫か? 緊張しているんじゃないのか」
「そりゃ、するでしょ。黒澤一郎だよ、だって。別世界の住民じゃないか。頭の中にはドヴォルザークが流れているよ」

引き続き親父の表情は固い。親父の心も新世界へ行っている。

「黒澤一郎ってどんな人? 俺、どんなテンションで行けばいい?」
これは聞いておかなくては。
「……黒さんはな──いい人だ」
煙草の煙をひときわ強く吐き出す。

「なにそれ。ってか、悪い人じゃないの? 黒澤一郎。悪の象徴といえば、ショッカー、ダースベイダー、黒澤一郎。ほら、みんな黒い」
「ふん」
親父が鼻で笑う。

そして、吸っていた煙草を携帯用灰皿に捨てる。
携帯用灰皿──。苦い記憶がよみがえる。昔からポイ捨てだけは絶対にしない親父だった。

幼少の頃のドイツでは、携帯用灰皿なんかは普及していなかった。ある日曜のことだった。ちょっと離れた広めの公園にサッカーをしに行き、しばらくパス交換やシュート練習をしていた。30分ほど経っただろうか、親父が「一服するぞ」と煙草に火をつけた。

灰を落とすことにはさほど抵抗がないらしい。親父曰く、焚き火をしている時に風で吹き飛ぶ灰を気にする奴がいるか? 灰が肺に入るわけではない。ということらしく、吸っている最中は至極満足そうであった。吸い終わった後、親父はあたりを見渡し、リフティングをしていた俺を呼んだ。

「おい、圭司。この公園、灰皿がないぞ。探しに行くぞ」
リフティングの記録に挑戦中だった俺はまだ続けたかったが、吸殻を手におろおろする親父を前に「もう少しやりたい」と駄々をこねるわがままボーイではなかった。物分りのいいよい子だった。

「うん、わかった」ボールをボールネットにしまい、肩に掛ける。かくして長く辛い旅が始まった。灰皿ありませんか。

「公園に灰皿がないとはどういうことだ? 人々を心地よくさせるのが、公園の役割だろうが。煙草を吸っている人にも、煙草を吸わない人にも公園は心地よくなければならない。なら、吸殻が落ちていたらどんなに不快だろう。煙草を吸う人たちも吸殻をやむを得ずポイ捨てすることになったら、どんなに罪悪感に苛まれるだろう」

ほとんど他人事のようにつぶやく。親父はなぜか吸殻を俺に持たせて、俺は灰皿を探して五十分以上歩く羽目になった。広い、広すぎるこの公園。
道行く人に「Wo ist der Aschenbecher(灰皿ありませんか)?」と聞いていく。十歳の俺が、吸殻を手に灰皿を猫の目で探す姿はさぞ怪しかったであろう。
 
灰皿尋ねて三千秒。公園を隈なく歩き回った。
「苦労かけたな」俺をねぎらう親父の言葉。
「──すばらしかったんだ、ぼくの旅!」と答えるはずもなく、灰皿も見つからない。

正直言って、自宅まで歩いても五十分はかからない。結局、吸殻は俺の指に大切に握られたまま、自転車で家まで持ち帰られることとなった。家に帰り、親父愛用のガラスの灰皿にその吸殻を捨てたときは、思わず「おやすみ、泣かないで」と子守唄を口ずさみたくなるくらい俺は吸殻と長い時間を共にした。

「おやすみ、泣かないで」俺は無意識に呟いていた。TBS前はデートの待ち合わせで人が増えてきた。
「……どうした?」親父が不思議そうに口にする。
「なんでもない。ちょっと回想を」

「ふん」鼻を鳴らし、「行くか」息を一気に吐き出すように口にした。

親子は歩き始める。日没は早く、風は弱まらない。誰かが忘れたビニール傘が手すりにかかっていた。


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かがよう提灯の灯りは「銀龍」と格調高く書かれた看板を杳々と照らす。腰の低い初老の番頭に名前を告げ、門をくぐる。鹿威しが聞こえそうな日本庭園。飛び石を一つ一つ確かめるように歩き、重厚な暖簾を上げて、引き戸をくぐる。仲居さんが深々とお辞儀をして「お待ちしておりました」と迎えてくれる。

「こちらへどうぞ」ベテラン風情の仲居さんの後について、廊下を進む。床材はチーク、サッシはリクシルの最上級クラスか。さすがだな、防音と断熱性を重視した構造。こんなときでも、つい目が行ってしまう。職業病も甚だしい。

隣の圭司は思いのほか落ち着いている。靴を脱ぐ仕種、廊下の歩き方、ふすまのくぐり方など、堂に入ったものだ。四度ほど廊下の角を曲がった先で仲居さんが足を止め、「こちらでございます」と声を発する。部屋へ通されるとき、黒さんが先に来ているかと一瞬不安になったが、まだ三十分ある。大丈夫だ。

案の定、まだ来ていない。
部屋に入ると、即座に圭司が当然のように下座につく。その隣に腰を下ろしながら思わず聞く。
「こういうところは初めてじゃないのか?」

「いや、俺も営業だから何度かは接待の経験もありますよ。もちろん基本、部長とかの付き人だけどね。ここまで格式高いところは来たことないわー」
「なるほど」案外頼りになるかもしれない、こいつは。そう思うと幾分か気持ちが落ち着いてきた。

座敷は掘りごたつになっている。圭司も俺も正座が苦手だ。助かった。圭司にいたっては、以前小百合の父親(圭司の祖父)の葬式に出席した際、焼香のときに足がしびれたまま立ち上がろうとして畳で大胆に転び、葬式の場で周囲を笑わせるという不謹慎極まりない失態をしでかしている。あの時の圭司の恥ずかしそうな顔──思い出すと少し顔がほころぶ。

今日は大丈夫そうだな。左腕を少し前に出し、シチズンの電波時計に目をやる。17時……37分てとこか。7が二つもあって、縁起がいい。よし。

そして、沈黙が落ちる。その沈黙は居心地が良さそうにしばらくこの場に鎮座した。

時計はこの上なく正確に一秒ずつ刻む。その瞬間は、毎分60秒の速さで近づいてくる。圭司は携帯を取り出したが、ややあって、しまう。何か声をかけなくてはと思うが、かける言葉が浮かばない。思考は泡沫の如く、かつ消え、かつ浮かびて言葉になるためしはない。

部屋を見渡す。落ち着いた佇まい──四人で会食するには心成し広いか。床の間の軸は……「猛虎図」。”政界の虎”、黒さんを迎えるにふさわしい掛け軸ではないか。

目だけを動かして部屋を色々と眺めるが、それが時間つぶしになるはずもなく、正確なはずの時計は一向に進む気配を見せない。沈黙さんは相変わらずここにいらっしゃる。参ったな、この重い空気。黒さんが来るまでに空気を変えておく必要があるぞ。空気……空気を変える。ふと浮かんだのが、先日接待したホテルのハゲ専務の顔。そうか、気まずいときこそ子どもの話題。圭司のほうを向き、声をかける。

「なぁ圭司、黒さんの娘さんって……」そう言いかけた時、廊下を歩く複数の微かな音が聞こえた。

この松の間は、銀龍の中でも最も奥まったこの部屋だ。
可能性は一つ。
……来た。

「──失礼いたします」仲居さんの声がして、ふすまがスローモーションで開かれる。

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