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漣の果てに。 第13話


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社長に内線で呼ばれたので、社長室に向かう。靴紐がほどけていることに気づき、しゃがんで結びなおす。リーガルの黒いストレートチップには、埃と汚れが付着していた。紐はなかなか上手く結べなかったが、短く息を吐き落ち着いて蝶々結びにきつく締める。

ノックをして少し大げさな装飾の入ったマホガニーのドアを開ける。

大開口の窓からは夏の到来を全力でアピールするかのごとく強い日差しが差し込む。空調のおかげで暑さは感じないが、あまりのまぶしさに思わず目を細める。

社長の姿を探すと陰翳が窓際にあった。
その影は窓の外を、とりわけ遠くの方を眺めている様子で、こちらを向かずに言葉を発する。

「率直に言う。まずいことになった」
社長の普段どおりの渋い声は、まずそうには聞こえない。

「まずいこと……なんでしょう?」

「井沢ダムだ。週刊誌が動いている。黒澤とウチとの関係を調べているらしい。早晩、君のところにも矛先が向かう」

えっ…。
凍りつく。心臓がここぞとばかりに鼓動を早め、俺の神経を刺激する。なぜ? どうして?

社長がゆっくりとこちらに向き直り、俺の目を凝視した。
眼光は鋭く俺は目を背けたくなる。

「……」

軽はずみに言葉は発せない。ぬかりはなかったはずだ。心の中で深呼吸をして告げる。

「どうしてでしょう? それも今頃、なぜ? 資金洗浄については、万全だったはずです」

苦々しげな表情を浮かべつつも社長が答える。

「それが私にも分からないところだ。金の流れを掴んだわけではないらしい。ただ、ウチが井沢ダムを獲れたことが出来すぎだ、と。入札金額が他社をわずかに下回ったのも絶妙すぎる、と。

下請けを始め、社内でも“必ず獲れる”という空気が流れていたことも怪しまれる原因となっているようだ。その自信はどこから来たのか、とな」

「そんな……。大工事を取りに行くのに一丸となるのは当たり前じゃないですか! それを怪しまれるなんておかしいですよ!」
俺は思わず声を荒げる。

「私もそう思う。君の工作は完璧だった。疑われる要素は本来なら、ない」
社長は冷静な表情を崩さない。

再び窓に向き直る。今度はビルから下を覗き込むように。眼下には品川駅を往来する豆粒のような群衆が蠢いていることだろう。

一拍措いて社長が核心を確信を持ってささやかに告げる。

「ユダがいる」
広い社長室のどこかにその一言がぽとりと落ちた。 

『最後の晩餐』でユダはどこに座っていたのだったか。ミラノの聖堂を思い出す──イエス・キリストの右隣だ。


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会社帰りに日吉駅から中央通りを直進し、一筋入った家への近道を闊歩する。駅から吐き出された人は散り、付近の人通りは0。この時間は蝉の声も聞こえない。暑さは和らぎ、クールビズに夜風が心地よい。

小道をさらに右折したその瞬間、つむじ風が吹き、突然、男三人に囲まれる。なんだなんだ?

あごを上げて身をのけぞらせ、首を動かして周りを確認する。大きいのと、中ぐらいのが二人。顔は……見えない──暗い。こんなときも街灯は電力不足を懸念し、見事に消灯中である。

ほら、市民が危険な目に遭ってますよ! 
節電よりも市民の安全を守るほうが大事なんじゃないですか! 
と、東横線の中心で危険を叫ぶ。

三人が俺との距離を縮めてきた。来るなら来い! とファイティングポーズを取れればかっこいいが、暴力は嫌いだ。

なんだなんだ?
不審と恐怖が俺を支配する。

「ちょっ…」
なんとか声を出そうとしたが野太い声でかき消される。

「杉森圭司さんですね?」
発声したのは、中ぐらいの人だ。背丈は俺と同じくらい。仮にAとしておこう。残りの二人はBとCだ。

「いえ、違いますよ」
と本能的に小学校の学芸会で絶賛された、抜群の演技力で答えてみた──無駄だった。

「残念ながらあなたは杉森圭司さんです。1981年4月11日生まれ、AB型、趣味はサッカー、幼少時代をドイツで過ごしたが、中学受験で失敗。高校受験で慶應高校に合格し、そのまま大学進学。大手電機メーカーに就職するもくすぶり中。昨年あの黒澤一郎の娘、黒澤雫と結婚」

中ぐらいの人B(小太り)が、この緊迫した場面にそぐわない高い声で、しかも途中裏返りながらFacebookを見れば全部分かりそうな情報をドヤ顔で言う。

『人の傷を掘り返すな!』
『くすぶり中は余計だ!』 
『こんな公共の場で人のプライバシーを暴かないでくださいよ!』 
俺の脳内で抗議のプラカードを持ったデモ行進がまことしやかに行われていた。

が、多くのデモ行進と同じように抗議するポイントがずれている。

「車に乗ってもらえますか?」
大きいのが言った。やさしそうな声だった。

それにしてもなかなかにギャップのある三人だ。分かりやすいキャラ設定といい、セリフの展開といい、ドラマでよく見かけるシーンだった。よく見かけるシーンだからと言って慣れているわけではない。

が、焦っても仕方ない。少し考えてみよう。
オッカムの剃刀──仮説は少ないに越したことはない。

これは、誘拐か脅しのようだ。身代金かな。俺は、何かやってしまったのか。……会社の接待費の使い込みか? いやいや、そんなはずない。脅されるほどじゃない。……浮気関係か? まだ結婚したばかりだし、それもない。

ふむ。なんだろう。俺は何かやらかしたのか…?
もしや原因は俺ではない!? 

……雫か。親が親だし、雫の線はあり得るな。だとすれば、敵は国家権力。ヤバい。俺が原因だったほうがマシな気がする。

いや、それとも、親父か。親父の仕事柄、ヤクザ関係もいい線いっているような気がするぞ。これもヤバい。ヤバい。

冷静に結構ヤバいじゃん、俺の周りの人たち。どれかに当てはまったらピンチすぎる。さぁ、どうしよう。

まずは、逃げる試みだけしてみよう。

「愛する妻が家で待ってますので。失礼させていただきます」
平静を装って言ってみる。足を踏み出そうとするが、大きいのが前に立ちはだかる。

「ご安心下さい。奥様には私どもの方で話を通しておきます」
柔らかな声で言う。

おぉ、それはすごい。どうやったらこの状況の話を通せるのだ? 大変興味深い。是非あとで雫に聞いてみよう。

……抵抗しても無駄か。3対1だし。大きいのいるし。

「わかりました。仕方ないので従います。すぐ終わりますよね?」
〝日本物分かりのいい人選手権〟があれば上位入賞は間違いない物分かりのよさで、俺は先方の要求を呑んだ。ドラマや映画ではここで逆らうと暴力的手段に及ぶのが通例。痛いのは嫌だ。

「ありがとうございます。早く終わるかはあなた次第です」
おそらくリーダーである中くらいのAが野太い柔らかな声で答えた。

それにしても、だ。こんな古典的な誘拐? 脅し? は実際には行われるはずがないと思っていた。
が、違った。
古典的=王道で一番可能性が高い、ということか。

三人に擁護されるような形で車まで案内される。政府の要人になった気分だ。こういうとき乗り込むのは黒塗りのベンツ車か、白のワゴンと相場は決まっているが、夜でも光沢が分かるくらい綺麗に磨かれた水色のプリウスだった。

ドアは乱暴に閉められ、車は急発進……するはずだが、どちらもしなかった。全員がきちんとシートベルトをカチリと音を立てて着用し、誰もいないのに左右確認を十分にしてから、音もなくハイブリッドに発進した。さすが、プリウス。

「えーと、どちらに向かわれるんですか」
行く先を知らずして人は遠くまで行くことは出来ない。俺はおそるおそる聞いてみる。

「申し訳ございませんが、黙っていていただけますか。直に分かることです」
中ぐらいのBが甲高い声で告げる。

どうもこの人の声には緊張感が足りない……調子狂うわ。
声に文句を言ってはいけないね、うん。

自宅付近から車で綱島街道を15分。その間、奴らは一言も発しなかった。プリウスの駆動音は無に等しいため、重苦しい沈黙が続いた。社内の快適さに俺は冷静さを取り戻す。だが、落ち着けば落ち着くほどあり得ない状況に焦る。

8月7日、天気ははれ。風は弱いが、視界は極度に不良である。謎だ。謎しかない。已むに已まれぬ大変な状況です。かなり分かりやすくまずい状況です。

多摩川沿いの橋梁横の24時間駐車場に停車する。もちろん他に車は一台もない。人目を避けたカップルが乗っている車の一台くらいあってもいいのに。俺はいつもの癖でつい舌打ちをする。中ぐらいのBに思い切りにらまれた。

あ、でも、このくらいの距離ならすぐ帰れるかも。良かった良かった。かくして俺はめでたく脅されることとなった。

車は停車し、運転していた大きいのがパーキングブレーキを勢い良く踏み込む。その音が合図のように車内に響き、中ぐらいのAがやっとこさ口を開いた。

エンジンの停止とともに車内の静寂は一層深いものとなり、Aの声は裁判長の声が法廷に反響するように、車内のあらゆる方向から俺に向かってくる。

「さて、杉森さん。今日ご足労いただいたのは、他でもありません」

なんだ?

「脅迫です」

やっぱり。

「大丈夫です」

大丈夫なわけないだろ。

「雫さんに危害が及ぶことはありません」

それは良かった。

「落ち着いて聞いてください」

うん、割と落ち着いてるよ。

「あなたにドミートリィになっていただきます」

と言いますと?

「まぁ分かりやすくいえば、親殺しの試みです」
サラッと言いのける。

ツーと思えばカーと返ってくる。あまりの展開の早さに相手の言っていることを飲み込む暇がない。

ドミートリィ……えーと、カラマーゾフか。
そして親殺し? は? ドストエフスキーの方は思い当たったが、自分が親殺しをしなければならない理由はまったく思い当たらない。

さすがにここは声を発する。ドミートリィのような素敵な開き直りができれば良かったが、そんな余裕はない。

「……ど、どういうことですか?」

「ある人からの依頼です。我々としても親殺しは最も辛い依頼です。ただ、巨額の金と日本の政治が絡んでいる。平たく言えば、あなたのお父上の死が日本を救うのです」

それが平たいなら、ポルダーに住むオランダ国民に日本の国土ってかなり平たいですよね、と言っているようなものだ。

どういうことだ?

「もし、この依頼を承諾していただけないなら、あなたの人生は終わりを迎えることになる。私どもとしても美人の奥様を悲しませたくはない。もっとも、いずれにせよ哀しみには包まれますが」
中ぐらいのAは堤真一を彷彿とさせる渋い声で引き続きとんでもないことを告げる。

親父、何をやったんだよ…。
フョードルと親父の姿はどうしても重ならない。
膝の古傷がピキリと痛んだ。

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