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漣の果てに。 第2話

「ナイスショット!」

伝統ある名コース箱根カントリークラブは、外輪山、内輪山に囲まれた360度のパノラマコースが有名だ。晩秋の早朝、キンとした空気の中、オープニングショットが飛んでいく。前日の温泉旅館もなかなか良かったが、一度回ってみたかった憧れのコースで広がる流石の絶景の中、心は浮き立つ。

しかし、残念至極にこの日は接待ゴルフ。ゴルフ自体は好きだが、接待は嫌だ。特に今回は相手も最悪。建築中の大手ホテルのハゲ専務にはこのたび、工事の落札にあたり「お世話」になった。ただ、そのためにこのエロ親父を相当お世話した。人の弱みに付け込む控えめに言っても最低クラスの人間だ。こういう輩は得てしてゴルフも下手糞である。

参加者全員にナイスと言われたナイスでも何でもないオープニングショットは、林に元気よく飛び込んで行った。

ハゲ・専務・ナイス。ハゲしく・センス・ないッス。……イマイチか。

一人で首をかしげていたら、ハゲ専務に呼ばれた。
「杉森常務。今日はいい天気で良かったですなぁ。ガハハ。息子さんはいくつになったのかね」
首を回しながら聞いてくる。ハゲ頭が太陽光を反射してまぶしい。
「二十八です」
「そうか、二十八か。結婚もそろそろなんじゃないか?」
「どうなんですかね、あいつは。何か会社でくすぶっているみたいで。愚息ですよ。愚息」

下らん。実に下らん。どうしてこうも話題の振り方がつまらないのか。俺の息子のこと知ってどうする? 会ったこともないし、この先会うこともないだろう。それとも圭司の結婚相手に娘をやろうとしているのか。そいつはごめんだ。義理とは言え、このハゲを父親と呼ばなければいけない圭司がかわいそうだ。良くこんなのであのラグジュアリーホテルの専務が務まるもんだ。

いや、逆か。こういう輩が上に行く、日本社会はそう出来ているんだったな。俺も……「下らないこと」に手を出したからこそ、今この役員の座にいる──。

貧乏生活だった。小森建設は大手のゼネコンだが、大学院卒業後に就職してすぐに結婚した俺にとって、給料は決して余裕のあるものではなかった。結婚して一年後に愛美(まなみ)が生まれ、その三年後に圭司が生まれた。四人家族として細々と幸せな家庭を築くはずだった。

だが、その計画は脆くも崩れ去る。愛実が小学校に上がったばかりの頃だった。家の中で転倒し、机の角で目を強打した。泣き叫ぶ愛実を連れて近くの眼科へ駆け込む。しかし、その場では応急処置しかできなかった。

医者が俺の後ろの壁に向かってつぶやいた。「杉森さん、このままでは娘さんは遠くない未来に失明します」。

必死だった。娘の未来がかかっていた。まだ六年しか生きていない。この先、たくさんの美しいもの、素晴らしい経験を目にするはずなのに。コネをフル活用して何とか慶應病院で手術を受けられるようになった。手術を経て愛実は奇跡的に失明を免れた。

娘の未来は金のおかげで救われた。しかし残ったのは治療に要した莫大な費用の借金とその後も必要となる治療費。脇目も振らずに働き、家に帰らない日も続いた。家のことは妻の小百合に任せっきりだった。単身赴任を避けるため、工事現場が変わるたびに引越しを選択する。いずれにしても家にいる時間はごくわずかだったが、「帰る家」の存在が俺を少しだけ安心させた。

そんな決死の覚悟で働く俺にご褒美が与えられた。愛実が四年生、圭司が一年生のとき、ドイツへの海外転勤が決まる。某日系企業のヨーロッパ本社建設の仕事を任された。圭司とまともに話が出来るようになったのは、それからだった。

土曜日は圭司と二人でサッカーをし、日曜日は家族でドライブに出かける。長期休暇中はヨーロッパ中を旅した。イタリア、フランス、イギリス、オランダ…。写真も沢山撮った。名産品もたくさん買った。これまでの空白を取り戻すかのように思い出が我が家に積み重なっていった。休みごとに増えていくアルバムの数は四十を超えた。家では笑いが絶えず、そこにあったのは紛れもなく幸せな家庭だった。

でも、「家族」を感じたのは後にも先にもこの六年間だけだった。海外での役目を終え、期待を背負って日本に帰国。ランドマークタワーを中心としたみなとみらいの再開発、丸の内のシンボルビルと立て続けに大きな仕事を担当した。海外での生活は幻だったかのように、再び日々に忙殺された。当然、家にいる時間は減った。

現場を離れ、営業職に変わり、出世もした。「男なら」という美学を自分と家族への言い訳とし、仕事を何よりも優先した結果、地位と権力を持ち始めた。

しかし、その先に待っていたのは談合と収賄と不正入札の繰り返し。営業職ともなれば、施主(せしゅ)だけでなくその地域で力を持っている政治家とのつながりも重要になってくる。大規模な開発や工事になればなるほど、その裏では政治的な動きが活発になる。当時の自民党政権では公共事業を推進する流れが強く、それに乗っかっていればゼネコンは安泰だった。やるべきことだけ抜かりなくやっておけば、順番に何百億の受注が舞い込んでくる。

俺も当然「やるべきこと」に加担する。政治家がささやく。そして、俺は机の下に億の「お土産」を奥ゆかしく置く。政治家は臆さずに手に取り、罪悪感などおくびにも出さずに握手を求めてくる。利権と欲に汚れた手など張り飛ばしてやりたかった。だが、俺は手を差し出し、がっちりとシェイクハンド──成立。お車で送られていく億の奥ゆかしいお土産。

これで、無駄な公共事業が一つ増える。大きなダムが出来上がる。会社には莫大な金が入る。地元の雇用は潤う。水害のリスクは少しだけ減る。自然が破壊される。村が一つダムの底に沈む。俺の心も沈む。ダムの底よりも深く──。

そして、十年が経った。愛実は結婚し、圭司は就職した。
ハゲ専務は変わらず上機嫌で、俺は変わらず営業の条規を遵守する。


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