漣の果てに。 第16話
十日が経った。
ここというどこかに、まだ、俺はいる。
頬はこけ、目の下にはいつも以上の隈ができた。心が侵されると身体は蝕まれる。雫には病院に行けと言われているが、診断は不要だし不能だ。
土曜18時。いつもならJリーグを見ながらコーヒーでも飲んでいる時間だ。だが、この一週間まったくと言っていいほど仕事が手につかない。
少しでも消化しようと持ち帰ってきたノートPCを開き、企画書ファイルをクリックするも指は微動だにしない。画面はいつの間にかスクリーンセイバーに切り替わり、幾何学模様が漂う。
指が温度を取り戻したのか、もぞもぞと蠢き、おもむろに引き出しを開けた──銃があった。
年賀状や手紙、給与明細などと一緒にこぢんまりと収まっている、黒色のそれ。
『ヘックラー&コッホ』の九ミリ口径。
素人でもブレが少ない良い銃らしい。手に取り、机の上にそっと置く。ゴトリと思っていた以上に大きな音がした。ややあって丁寧に机の奥にしまう。
決められない。
決められるわけがない。
手で顔を覆い、足を伸ばす。
髪の毛を掻き毟る。
机を拳で叩く。
呻く。
台所からはまな板の音が、リビングからはドビュッシーが聞こえてくる。
非日常と日常が複雑に交差する。
部屋の本棚にあるフィクションからは幾多の視線を感じる。
これは、現実だ。逃れられない現実だ、と俺の無意識を突き刺す。
親父、どっちがいいんだよ。
どちらにしても殺されるんだってさ。
とんでもない事態だよな。
破滅的な状況だよな。
「生きる」っていう選択肢がないんだ。
致死率の極めて高い病にかかったのと同じなんだよ。
「残念ながら……」と医者が首を振っている状態なんだよ。
俺はどうすればいい?
教えてくれよ、親父。
植木算を教えてくれたときのように、
単純明快に、
俺に分かるように、
教えてくれよ。
だが、親父はいなかった。
そして、答えは出ない。
答えがあるのかもわからない。
「圭司ー。ご飯出来たよー」
台所で雫が俺を呼ぶ。重い腰を上げ、ダイニングへ向かう。
表情を出来るだけ明るくして、席に着いた。
「じゃーん。今日は圭司が好きな肉じゃがでーす。上手にできたんだ」
エプロン姿で両手を腰にエッヘンと胸を張る雫は、飛行船の中でシチューをふるまうシータのように無邪気で愛おしく、俺の心を刺激する。
漂う湯気と和風だしの香り、温かい味噌汁。
キャンドルライトに浮かび上がる雫の満足げな顔。
俺は微笑し、箸を取り、味噌汁をすする。肉じゃがを頬張る。それはあまりに美味しく、そして、どうしてかお袋の味にそっくりだった。不意に涙が一滴こぼれた。たったの一滴の涙だったが、雫はそれを見逃してはくれなかった。
「……圭司? どうしたの? 最近、本当に変だよ。何があったの? 普通じゃないよ! 絶対!」
眉を顰め、心配そうに俺を見る。
「それとも私に言えないことなの?」
目を伏せる。ダイニングテーブルの木目は、うねり、歪み、クロニカルに渦を巻いていた。
「ねぇ、黙っていたら何も分からないよ。何か言ってよ、ねぇ!」
語気を荒げる。
俺の口は開かない。
ただ雫の目を見つめ返す。
長い数秒間が経過した後、雫の表情がふっと緩む。そして、涙を湛えながらぎこちなく笑顔を作り、言う。
「あのね、圭司。本当に辛いことは陽気に伝えるべきなんだよ。だから笑って。笑って教えてよ」
雫も俺の目を覗き込む。漆黒の瞳に浮かんだ蝋燭の炎は幻妖であまりにも美しかった。リビングのSONYのコンポは、なおもセンチメンタルに『月の光』を奏でる。
俺の口はほとんど無意識のうちに、真実を少しだけ歪曲して閑やかに伝えていた。
「……親父が死んでしまうかもしれない」
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