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漣の果てに。 第9話

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トイレの小便器に向かい、並んで用を済ませる。男の性(さが)でこの瞬間は無言だ。上品かつ清潔なトイレの内装は抜かりない。一足先に出ようと手を洗い、鏡と向き合う。向こう側の自分は案外落ち着いた表情をしていた。廊下を進み、中庭を眺められる縁側に立つ。池は暗く濁り底も見えない。室内の暖かさと外のひやりとした空気が綯(な)い交る。

「どっこらしょ」
遅れてきた黒さんが大げさに声を上げて腰掛ける。続いて俺も隣に腰を下ろす。

「フッ」
溜め息とも笑いとも取れない音が隣から聞こえた。黒さんが煙草を咥える。刹那、俺はジッポで火をつける。

フゥー。人差し指と中指の間に深めに煙草を挟み、煙が吐かれる。濁度の高い池の水を見つめながら黒さんが口をゆっくりと開いた。

「──井沢ダムか」
これまでの上機嫌な声とは打って変わった低い声。

目は鋭く口元はへの字に結ばれている。
さすがの天眼通。

「……はい」
先手を取られ、返事に窮する。

「こうして会うことが俺の立場を危うくしているということを知ってのことか?」
庭を照らすライトが反射し人一倍大きな白目がぎらりと光る。半端な答えは許されない。

「はい。しかし、黒さんが疑われることはありません。手は打ってありますし、今日の席は『お見合い』ということでしたから」

「確かに。今日の主役は子供二人ということになっている」

「雫さんは圭司を気に入るでしょうか」
少し話を逸らす。

「おそらく問題ないだろう。私の方からも話をしておく。……圭司くんなら私は一向にかまわん。落ちついていて賢い、いい青年じゃないか」

「愚息に余るお言葉、ありがとうございます。僭越な話ですが、圭司は雫さんを一目で気に入ったようです。ワインご一緒させてもらってましたから。普通、黒さんに合わせるところですよね、営業なら」
上目遣いで黒さんの顔色を窺いながら言う。声が震えないように必死で意識する。

「はっは。確かに。そういえばそうだ」
腹の底から吐き出される笑い声。

大丈夫そうか? 俺も煙草に火を付け、吸って、吐く。
俺の想いも深く吸って、吐く。

「──井沢ダムの件ですが、うちで獲らせてもらえませんでしょうか」

「……今回は鹿鳥だろ。無理だ。小笠原も動いている」
口の端を上げながら答える。顔が歪む。ニュースでもよく見る表情だ。

「存じ上げております。難しいからこその黒さんへのお願いです」
座りながら膝に頭が付く勢いで頭を下げる。

「杉森くんの頼みといえどもそれは難しい。東北の工事は鹿鳥にやらせておけばいい」
煙を今度はやや上方に吐く。

予想通りの難色。しかし、引き下がるわけにはいかない。

「小森建設としては、黒さんにこれだけ準備しています」
俺は片手を開き、五本の指を立てる。顔色がやや変わる。

透明な時が流れて、遠くで鹿威しの音が聞こえる。
変わらず風は強く、月も星も出ていない。

「受け取れない。第一、どうやって渡すつもりだ?」
言葉とは裏腹に大きな福耳が動く。

来た──乗り気だ。

「浜松と横浜の楽器と絵画を取り扱う零細企業を使って、資金洗浄をする手筈は整っています。そこから政治団体を経由して、何度かに分けて黒さんの事務所に献金としてお金が入る仕組みです」
金の流れを書いたメモを見せる。

「楽器と絵画? 大丈夫なのか」
眉が吊上がり、困惑の色が浮かぶ。

「楽器も絵画もその価値のつけ方は人それぞれです。しょうもないバイオリンと、落書きのような絵を海外の物好きが大金で購入するんですよ。大金が海外から企業に送金されます。二つの企業と最近作られた地元の政治団体は密接につながっています。

それらの政治団体は元々、黒さんを応援するために立ち上げられたもので、既に存在しています。そこから黒さんの事務所に五年間をかけて金が回ります。警察も検察も海外からの送金はそこまでチェックしません。我々とつながっているなど露ほども思わないでしょう」

今までに使っていない手口だが、自信はある。これならいける。

しばし黒さんが考え込む。
口はへの字。眉間に皺。
が、勝負師は結論も早い。
二重あごを一度引き、顔を上げ、目を見開いた。

「私は何をすればいい?」

乗った。
船頭が決まった。やはりこの男、金には目がない。

渦。
巨大な渦に巻き込まれる。

が、この舟は沈ませない。圭司と共に漕ぎ始めた舟。
圭司は幸せを掴み、俺は地位を手に入れる。これでいい。

「鹿鳥の入札額を教えてください。小笠原さんも今回は鹿鳥に獲らせるはずです。鹿鳥を下回れば決まりです」

無言。それが、黒さんのイエスだ。

俺はメモに火をつける。そのメモは程なく黒く燃え上がり、たちまちグレーの灰となる。煙は上がらない。

雲の流れは早く朧月が覗き、池にわずかに影を落とす。

席に戻ると、圭司がワインについて雫さんにぼそぼそと語っていたが、雫さんはあまり興味がなさそうだった。こちらに気づいた圭司は明らかにほっとした表情を浮かべる。

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この数分間、二人は何を話していたのだろう。雫さんは、やや心安い表情へと変わっていた。黒さんも何事もなかったかのようにご機嫌で、料理を平らげる。俺はミッションから解放された安心感で酒を飲みそうになったが、圭司にさりげなくストップをかけられる。そのおかげでさほど飲まずに済み、理性は保たれた。とりとめのない会話が繰り広げられ、お開きとなる。

黒さんとは少し時間をずらして銀龍を後にする。グレイツ黒澤親子は無論、ハイヤー。凡人杉森親子は勿論、地下鉄。

金曜23時の銀座線は宵に余威と酔いを乗せ、夜寝(よい)へと誘う。帰り道、圭司はほとんど話さなかったが、機嫌は悪くなさそうだった。尤も電車の中というこの上ない公共の場で黒さんの話をされても困る。雫さんの印象を聞きたかったがグッと我慢した。新橋の駅で別れる。

「今日はごちそうさま。貴重な経験だった。また」
圭司が軽く手を挙げる。

「おう、つき合わせて悪かったな。体調には気をつけろよ。じゃ」
こちらも手を挙げる。圭司がくるりと背を向けて歩き出す。案外背中が大きい。圭司に背を抜かれたのはいつだったか。

込み合う新橋の駅から東海道線に乗り込み、40分。少しの酔いと心のもやもやと葛藤しているうちに大船に着いた。京浜東北線に乗り換え、数分。最寄り駅に到着した。電車を降りて少し走ったため、待たずにタクシーに乗れた。日付をまたぐことなく家に到着。

なおも真っ暗な我が家。暗闇の中、左手で灯りのスイッチを探し、点ける。セコムを解除し、雨戸を閉めた。うがいと手洗い、歯磨きをぬかりなく済まし、リビングのソファに腰掛け、テレビを点ける。

ここで漸く深いため息がもれた。これで良かった。俺は間違っていない。
適当に回しているとスポーツニュースがやっていた。

机の上には今朝片付け忘れたへのへのもへじのマグカップ。簡単に洗って水を飲もうとふと手に取ると、へのへのもへじと目があった。ふむ、なかなか愛嬌のある表情だ。

圭司が中学三年生だった15年前、6月の日曜日。その日まで圭司は京都へ二泊三日の修学旅行に行っていた。

「正直、修学旅行とかあんまり興味ないんだよね。つまんないし。自分が行きたいところ行けないし。周りに気を遣わなきゃいけないし」
とか前にこぼしていた。その頃は圭司とあまり会話ができていなかったが、小百合経由で中学に対する不満はちょくちょく聞いていた。日ごろ悶々と過ごしている中学を離れた修学旅行。少しでも楽しめるといいな、と思っていた。

当時担当していた現場でトラブルがあり、日曜出勤をしていた俺が家に着いた時間は午前様。受験生である圭司もさすがに今日は疲れて寝ているようだった。

机の上に見慣れぬマグカップが置いてある。脇に手紙が。

「父さんへ。休日出勤お疲れ様。今日は父の日。(日付変わったかな?) 京都の陶芸工場でマグカップを作った。これは、楽しかった。二つ作ったから一つあげる。会社で使ってくれ。
もう一つは俺のだ。(これは若干失敗した)上手く出来た方を父さんにあげることにした。
では、おやすみ。割ったら承知しねぇ  圭司」

何だか俺の字に似てきたな。親バカながらきれいな字だ。

マグカップを手に取る。へのへのもへじが描いてある。日付入りだ。へのへのもへじにセンスもへったくれもないが、センスのいい「へのへのもへじ」だった。

ニュースの音声を傍聞きしながら手に取り、見つめる。
──不機嫌なその表情が、ぐにゃりとゆがんで笑っているように見えた。

以来会社でもしばらく使っていたが、オフィスが変わった時、家へ持ち帰ってきた。ちゃんと使っていることを圭司にアピールしたかったこともある。

あれから15年経つが、今も健在だ。想いがこめられた物は強い。不覚にも二度ほど落とした経験があるが、ひび一つ入っていない。

どこへ単身赴任するときもこのマグカップだけは持っていった。大地震が起きたとき、真っ先に持ち出す物リストの最上位も、これだ。 

テレビでプロ野球ニュースが始まった。
アナウンサーのテンションが高い。
何かあったか?

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