漣の果てに。 第10話
家に帰ってシャワーを浴びる。ネットで海外サッカーの情報を軽くチェック。もうすぐヨーロッパ選手権だ。ドイツ代表のメンバー選考も気になるが、特に目を引く情報はなかった。
ベッドに腰掛け、テレビをつけてチャンネルは8に。プロ野球ニュースがやっていた。一時期サッカー日本代表キャプテンとの熱愛が報じられたアナウンサーのテンションが高い。何かあったか?
広島カープの六年目の背番号18がノーヒットノーランをやりのけたようだ。マウンド上で両手を挙げてガッツポーズ、味方選手が次々とマウンドへ祝福に集まる。
野球は詳しくないし、バッティングセンターに行くと逆にストレスがたまるぐらい下手くそだが、カープは密かに応援している。子供のときに親父と市民球場に見に行ったから。
毎朝、新聞でカープの勝敗だけはチェックしている。広島出身の親父はもちろんカープファンだった。
「一体、お前は何になりたいんだ?」
中学のとき、珍しく家にいた親父に聞かれた。テレビでは野球中継が流れている。広島対巨人。
「お父さんみたいな建築家!」
目を輝かして言って欲しかったのだろうが、あいにく俺は高所恐怖症だ。それだけは絶対に、ない。
テレビでは暗黒時代に突入したコイ(カープ)の左腕エース24番が快投を続けている。親父は24番を絶賛している。今のカープの魅力は彼なくしては語れないらしい。
「ピッチングの内容が濃い。コイツなくして今のコイは成り立たねぇ」
とか言ってる。
「──俺、先生になるよ」
小さな声で言ってみる。
「よし、広島先制したぞ! ん? 何か言ったか?」
自分で話しかけたくせに親父はテレビに意識を持っていかれている。いつだってそうだ。大切な話のときも我が家ではなぜかテレビがついている。
コマーシャルを挟み、再び24番。
「ここは、カーブだな。カープだけに」
「次は外角ストレート」
全く当たらない親父の配球予想。それでも一緒に見るのは楽しかった。夢中になっている「父さん」が好きだった。背番号24は完封勝利。親父は上機嫌だ。
カープが最下位に終わったその年のシーズンオフ。チームで唯一、二点台の防御率をたたき出し、皆に惜しまれながらも、背番号24は引退した。
「我が野球人生に一点の悔いなし」
親父はカープの話をしなくなった。
ビリビリビリ。ビリビリビリ。
ジェット機が近くの上空を通ったときの窓ガラスが揺れるような音がした。
ハッとする。
携帯が机の上で震えていた。手に取ると知らない番号が表示されている。時間も時間なので、やや逡巡したが、通話に切り替える。
「圭司さん? 私、雫。」
さっきまで聞いていた、透き通るような声。えっ。
「えあっ、どうも」
驚きのあまりおかしな返事になる。んーと? えーと?
ぐるぐると頭の中を旋回していた複数の疑問が次の一言でかき消される。
「私ね……。あなたと付き合ってもいいかな、って思ってる」
「はっ!?」
「結構、あなたに好印象持ったから。付き合ってからしか分からないこともあるし、付き合うまでのプロセスってまどろっこしくて私は嫌い」
「は、はぁ…」
町を歩いていて、突然「私、あなたのファンなんです! サイン下さい!」と言われたような気分で、リアクションもそんな感じになる。わけが分からない。
「だから、あなたが良ければ、付き合ってほしいの」
雫さんの声は流麗な澄明さで、俺の心に突き刺さる。
葉桜が黄緑色に木を染め、散ったはずの桜は早くも再び生命をその身に宿す。新緑まぶしく風薫る五月。
品川のオフィスビル街では風も薫らず、うぐいすの声も聞こえない。なぜか早くも効き始めているエアコンの風は少しかび臭く、最近LEDに変えられた蛍光灯はまぶしい。季節感なき快適なオフィス空間。
5月20日──。
今回の入札では参加している会社が少ないため、電子入札が行われない。古典的な書類による入札となった。また、近年の入札では金額のみではなく、技術提案も含めて総合的に評価し、落札業者を決める「総合評価システム」が主流だ。だが、今回は各社とも目新しい提案はない様子──よって、「ほぼ金額のみで決まる」という情報は各社既知のことである。
一番札をどこが取るのか。俺は入札の場には立ち会わず、社長室で静かに白尾副社長の報告を待つ。
金額を書き入れた入札用紙を入れた封筒は昨夜、俺と社長の間で作成した。封筒の重みは俺の人生の重みのはずだが、手の平に乗せた封筒は大変残念ながらに軽かった。今朝7時に出社した副社長に託す。
入札用の封筒は二通。一度目で指定金額に達しなかった場合は、二度目がある。だが、一度目が勝負だ。二度目になれば、各社どういう動きをするか読めない。各社様子見の一発目で国が指定した「落札予定金額」を下回り、かつ最も入札額が低ければそれで決まりだ。
一通目に勝負の金額を書いた。もちろん、大幅な赤字工事だ。獲ることを条件に社長の大号令の元、下請け業者の価格を叩きまくっている。申し訳ない、業者の皆さん。社内的な調整も獲れることが前提となっている。中規模工事で使うはずだった予算は、ほぼ井沢ダムに向けられた。
これで獲れなかったときは、下請けからの信用を失い、他の工事の人員や予算を削減したツケが回ってくる。失注による損失だけの話ではない。会社のバランスが大きく崩れることになる。社長の言葉通り、社運がかかった入札である。
入札は10時から国土交通省庁舎にて。決まった場合はホテルオークラで記者会見を社長が行う。9時50分からの十分間が異常に長く感じる。社長は窓の外を眺め続けている。何を見ているのか。何が見えているのか。
社長室のアンティーク時計の長針と短針が、綺麗な60度の角度を形成し、10時をお知らせする。鳩が鳴き始めることはなく、ひっそり閑と運命の時は、過ぎた。
1分……2分……社長室にはかすかな秒針の音が響き続ける。
社長が椅子にどっかりと腰を下ろす。
7分が経過しようとしたとき、社長の携帯が鳴動する。
フリップを開き、耳に当てた。
「私だ」
しばしの沈黙。
直後、電話の向こうから副社長の興奮した声が漏れる。
「…ふん。 …で? ……ほう。………そうか。…ご苦労だった。周りに気をつけて戻って来い──」
社長はクールにそう言って、通話切ボタンを押す。
社長室の窓の外は曇り空。そうであっても、大開口の窓は十分に光を採り入れる。部屋に置かれた観葉植物を淡く照らす。
社長が立ち上がり、悠然と歩き出す。
重厚な絨毯は足音を見事に吸収する。
机を旋回し、俺の前で止まる。
そして、手を差し出した。
「獲れたぞ。ありがとう。おまえのおかげだ」
俺も手を握る。一蓮托生の合図。
罪を背負って生きる覚悟。
湧き上がる安堵と達成感。
そして、胸の奥で疼く何か──。
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