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感情的幸福論 ~幸せとフットボールを繋ぐもの~

序論


 嬉しい、楽しい、面白い。

 そういったポジティブな感情になりたいという欲求は誰しもが持ち合わせているものだ。
 ある人は趣味に没頭し、ある人は旅行をして回り、ある人はスポーツに打ち込む。

 そして、一時的な幸福感を得る。

 人々はそういった非日常的な一瞬の幸福感を求めて平凡な日常に向き合っている。微かな幸福感や興奮を連続させることで、人は自分なりの「幸せ」の解像度を上げていく。

 「感情」は、「幸せ」に直結するものである。

 人生設計をするうえで、「どういう感情になりたいのか?」という問いをたてることは重要な意味を持つ。進路選択にせよ、職業選択にせよ、その環境で自分が何をして、どのような経験を積み、いつまでに何を成し遂げたいのか。最終的に、どういう感情になりたいのか。

 ここを突き詰めていくことで、自分にとっての幸せとは何なのかを明らかにしていく。



核の喪失と葛藤


 将来の夢は、プロサッカー選手。

 これまでの人生で何度も口にしてきた。
 北海道の田舎町で育った俺は広い世界を知らず、身の程を知らず、上には上がいるということを知らなかった。

 ある意味それはラッキーだった。何も知らないからこそ素直な気持ちで夢を追いかけ、ひたむきに努力できたと思う。

 プロを目指すこと。それが当たり前だと思っていた。
 サッカーを本気でやるならプロを目指さないことには始まらない、と。

 実力が伴わないにも関わらず凝り固まった考えを持っていた俺は、案の定多くの挫折を経験した。上には上がいることを知った。評価される難しさを知った。

 プロサッカー選手を目指していると口では言っていても、行動や評価が伴わないと自分を疑ってみたくもなるものだ。
 プロになるという目標からは遠ざかっている感覚。しかし、サッカーに対する想いは強くなっていく。現実と心のギャップにやられていた。
目標に近づくことができていないのに、サッカーを本気で楽しめている自分を受け入れることができなかった。受け入れたくなかった。

「俺は何のためにサッカーをしているのか。」
「プロになりたいんじゃなかったのか。」
「サッカーは、本当に俺を幸せにしてくれるのか。」

 そういった日々の葛藤の中で、自分がサッカーに魅了される理由を探していた。浮かび上がった疑問符を放置することは不可能だった。

 鎌田航史という人間の構成要素としてサッカーはあまりにも大きく、そこの不明確さは自分の存在そのものを否定しているようだった。

 ―― サッカーをする理由が分からない俺は、一体何者なのか。――



「幸せ」の正体


 プロサッカー選手になりたいという核を見失った。
 しかし不思議なことに、サッカーそのものを嫌いにはならなかった。むしろ熱量は増し、サッカーを通して幸福感や充実感を得ることの方が多かった。

―― なぜこんなにもサッカーが好きなのか。――

 こんなこと、疑問に思ったこともなかった。
 好きだから好き。それだけだった。
 しかし、人生の岐路に立たされたからこそ、極めて単純にも思えるこの問いに対して真摯に向き合い、思考することができたのだと思う。

―― これまでの人生は「幸せ」だったのだろうか。――

 間違いなく幸せだった。
 家族に恵まれ、友人に恵まれ、仲間に恵まれた。
 そしてそういった多くの人たちとの関係性の中に、必ずサッカーはあった。

 サッカー選手としての努力が結果という形で報われたことは一度もない。  しかし、圧倒的な時間をかけ、精神をすり減らし、本気になってサッカーに向き合っていることは疑いようのない事実である。

 どのような感情が、俺を幸せにしているのか。

―― 「悔しい」と思えること。――

 これが今の俺が行き着いた、幸せの正体である。

 本気で何かに向き合ったことがある人は、必ず挫折を経験している。
「本気」と「悔しい」はセットだ。本気にならないと、悔しくはない。

 悔しいと思えることは、本気になった証拠である。

 「天才」という安い言葉を俺は心の底から嫌っている。その裏にある、血のにじむような努力と挫折経験を軽視しているように感じるからだ。
 悔しさを味わうことなく成功を掴み取る者などいるはずがない。

 勝者は、いつも一人だ。
 FIFAワールドカップ、UEFAチャンピオンズリーグ、全国高校サッカー選手権、ありとあらゆる大会において輝きを放った彼らのほとんどは、結果的には敗者になる。
 しかし、敗者も輝いている。敗者こそ美しい。そんな風に思う。

 俺はいつも敗者だった。

 達成できなかった目標の方が多い。
 努力が結果として報われたことはない。(あくまで”結果として”だ。努力する過程や出会った仲間たちとの経験の価値は計り知れない。)

 しかし本気だったことは間違いではなく、サッカーに人生をささげてきたことに後悔があるかと聞かれれば、答えはNoだ。
 そして、サッカーで幸せを感じ続けている。何も成し遂げてはいないのに。

 敗者は敗者なりの輝きを放っていたい。
 そのためにも、本気でありたい。
 悔しさを味わうことで、本気になったと証明したい。
 自分自身に。

 これからも、「悔しさ」という感情から幸せを少しずつ貰って生きていこうと思う。



まとめ


 人の数だけ人生はある。
 何を幸せとするかによって、自分が選んだ道を進んでいけばそれが正解だと思う。

「大人になる」とは、「与えられる側から、与える側になること」である。

 と俺は考えている。

 教師になると、勉強を教わる側から教える側になる。
 社会人になると、価値を与えられる側から与える側になる。
 そしてプロサッカー選手になると、夢を魅せられる側から魅せる側になる。

 俺は、これまでの人生は「サッカー選手であること」に固執してきたが、今後は「サッカー指導者」として関わり続けたいと考えている。

 「与える側」になるためには、俺は選手ではなく指導者だと思った。
 そして俺にとっての幸せである「悔しい」という感情を持ち続けるために、まだサッカーの力を貸してもらおうという魂胆である。

 これからも自分の感情に従い、熱く、真摯に、サッカーに向き合う。
 本気になり、悔しいと思える。
 これが俺にとっての幸せだから。


――― 以下、読者に向けて。

 ある人生の岐路を境に、一度サッカーから離れるという選択をする人は多い。俺はその判断を心からリスペクトしている。残念ながら俺にはその勇気はなさそうだ。
 サッカーは人生の一部でしかない。広い世界を見ることが自分の幸せにつながる可能性は極めて高い。

 ただ、俺のようにサッカーが好きで好きでたまらないけど、将来の道に悩んでいる人。
 不安、葛藤、周囲の目、プライドなど色々なものが邪魔をしてくると思う。サッカーの世界から離れる人がほとんどで、流されそうにもなる。

 でも、無理にサッカーから離れる必要はないと思う。人生をかけてもいいと思えるほど好きなのであれば。無残に散っても後悔しないと思えるのであれば。
 好きならやってみればいい。嫌いになったらやめればいい。
 それくらい、簡単に考えていいと思う。

「何をしたいか」 ではなく 「どんな感情になりたいか」

 自分の気持ちに正直になり、自分なりの幸せのカタチを描いてゆければ、悪い方向にはいかないはず。

 サッカー好きなんでしょう?
 共にサッカーで生きましょう。


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