100日哲学チャレンジ☆7日目

 「稲妻の一撃」の否定

 ブルデューは、すばらしい芸術や音楽との、突然の出会いを「稲妻の一撃」呼んだそうです。自分にとってそれは、MIYAVIの音楽に出会ったときでしょうか。

https://twitter.com/MIYAVI_OFFICIAL?s=20

 NHKの「SONGS」の特集を見たときだったと思います。ギターのスラップ奏法も、彼のパフォーマンスから知りました。見た目や音楽のカッコよさもありますが、一番は、彼がUNHCRの親善大使でもあったからです。

 僕は中学の頃から、マイケルジャクソンが好きで、「Beat it」や「Billie Jean」で英語は勉強しました。彼の「heal the world」や「Man In The Mirror」のMVを見て、世界に向けて、平和や人類全体の幸福を呼びかけるような歌って、凄いなって思っていました。

 そして、中学、高校、大学と、上手く友人や恋愛関係を築くことができなかったと感じ、自分が孤独に思えていた僕は。大学生になった時に出会ったMIYAVIの「Long Nights」等の歌詞に、戦い続けなくては生きていけない寂しさと、この辛さを超えた時、幸せになれるかもしれない、という希望を感じました。MIYAVIを知って以降、「耐え忍ぶ」ことを題材にした日本人的な作品(哲学で言えば、新渡戸稲造の『武士道』、漫画で言えば、『無限の住人』)を手に取るようになります。

 努力して、この地獄を耐え抜けば、幸せになれるんじゃないか。そういう考え方が、僕の大学生活の前半まで、頭の中を覆うことになります。

 こうした偶然の重なりによる「稲妻の一撃」を、ブルデューは否定しています。芸術作品に自然に出会うことそれ自体が幻想である、というのです。

 確かに考えてみると、僕が「SONGS」でMIYAVIを知ることができたのは、両親が最新の音楽に興味を持ち、録画していたのを見たからです。マイケルジャクソンを知ったのは、中学校の英語の先生が、いつも授業の始めに洋楽をかけてくれたからでした。結局、芸術との出会いは、それらと出会う為の下地である、「教育水準」や、「出身階層」と密接に結びついたものであるようです。

 そして、僕が言わば「日本人的な」、禁欲的な作品に対して関心を寄せたのも。一生懸命に勉強して、良い高校・大学・就職を目指さなくては、経済的にも家が厳しかった、という背景があったからかもしれません。

 以上を考えていくと。僕はいつの間にか、「日本人的な」趣味への嗜好性、或いは行動の傾向(つまり、ハビトゥス)を身につけていったようです。

 そして大学では、中々出会うことのできなかった、似たようなハビトゥスをもつ人たち(クラスター)を少数ながら見つけました(その中に、婚約者もいます)。僕は、自分と違うタイプのハビトゥスをもつ人間とのお付き合いも大切ですし、本当は、恋人も、互いの欠点を補いあうような性格の方が良いのかもしれません。

 でも、自分と違うタイプのハビトゥスをもつ人と一緒にいることは、面白くもありますが、お互いに疲れてしまう部分も多いと、経験的に思いました。だから、日常生活の中で、多少上手くいかないことがあったとしても、ずっと暮らしていく中で、ストレスが少なく、笑って過ごせる人といようと思います。

 そして勿論、彼女との出会いも、全くの偶然ではありません。

 この続きは、明日。今回のお話とも似ている、クランボルツの「計画的偶発性理論」とともに、お話しようと思います☆

 <本日の参考文献>


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