翻訳できない

 ここ数日、ソシュールの言語学のことを学び、その過程を note に書いてきた。まだ試みは半ばだが、ソシュールのしたことが言語の転換点であることがわかった。それは言葉が単なる「物の写し鏡」ではなく、それ自体に何らかの意味、あるいは世界があるということだ。

 このようなソシュールによる言葉の転換を知るにつれて、〈言葉〉というものの捉え方について改めて考えるようになった。それはそれぞれの言語に特有の世界があるのではないかということだ。

 『翻訳できない世界のことば』という本がある。知っている人も少なくないだろう。この本はロングセラーになっている。この本がここまで人気なのは、「それぞれの言語にはきっと翻訳できない世界があるのではないか」と皆がうすうす思っていたからじゃないだろうか。


 日本語の一人称が豊富にあるというのはよく言われる指摘だ。英語の「I」に対して、日本語だと「わたし」「ぼく」「おれ」「わし」「吾輩」「余」「あっし」などなど。夏目漱石の小説「吾輩は猫である」が、「I am a cat」と訳されているのを見て違和感を覚えたのはわたしだけではないだろう。正しいけど「なんか違う」のである。翻訳者泣かせのタイトルだ。

 さて、言葉というものが、ある意味を変換するものとしてだけあるのだとしたら、「I am a cat」には何の間違いもない。「吾輩」は自己を指す一人称の名詞であり、それに対応する英語は「I」である。しかしここに違和感を抱くのは、言葉が「対応」や「変換」といった単純な仕組みでできていないからだろう。

 ある言葉の意味や仕組みをすべて熟知していることと、それを「話す」ことは違う。「I am a cat」に違和感を覚えるわたしたちは、本能的にそれをわかっているということだ。「吾輩」という言葉は単にわたしとしての自己を写すだけではなく、その言葉自体に何かある。その何かとはなんだ? それはそう簡単にはわからないのである。

 

 つづく

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