社会性と幸福度

 社会的な喜びについて考えてみる。社会的な喜びを感じられないとわたしたちはどうなるだろうか。


 わたしたちは社会的な喜びを感じることができる。それは社会に出るまでは家庭や学校のなかで、社会に出てからは会社や趣味などの所属している集団の中で獲得する。青年期まででいえば例えば、周りの人に親切にしたら母親に褒められて嬉しかったとか、学校で表彰されて皆から認められるなどの喜びがあるだろう。大人になってからも、会社で後輩ができて頼りにされたり趣味の友人と関係を築くことなどによって社会的な喜びを感じる。

 社会的な喜びに対して生理的な喜びがある。例えばランチの定食で好きなおかずが出てきた、とか、今日はいつもよりゆっくり寝られるとか、そういうことは生理的な喜びだ。これらの両者は専門領域では生理的欲求、社会的欲求といわれるが、ここではより一般的に「喜び」としておきたい。

 社会的な喜びといっても、その内容はそんなにシンプルではない。例えば、大事な人に真剣に怒られた時、わたしたちはどういう感情を抱くだろうか。その時心拍数は上がり、二人の信頼関係が壊れる予感を抱くだろう。しかししばらくして真剣に自分に向き合った相手のことを考える。その時の気持ちは喜びとは言えないが、しかし不快と断言することは決してできないだろう。誰かに真剣に向き合ってもらえること、それは後々の自分自身の尊厳に関わってくる。

 わたしたちが社会の中で感じる情緒はとても複雑なものだ。現代はさらにそのあり方が変わっている。SNSでいいねを獲得した時、わたしたちは社会的な喜びを感じているのか、生理的な喜びを感じているのか、どちらなのだろうか。


 喜びについて考える時、モーニング娘。のザ☆ピースの次の歌詞がヒントをくれる。

好きな人が優しかった
うれしい出来事が増えました

「ザ☆ピース」 つんく

 これを単純に理解すれば、好きな人が自分に対して優しいことや親切な言動をしてくれて嬉しかったとも解釈できるが、この歌詞で言っていることはもっと別の意味のような気がする。

 好きな人が、自分以外の人に対して、優しくしているところを見た。そういう相手の人間性を知って嬉しくなった。二番の歌詞を見るとさらにそう思わされる。

愛しい人が正直でした
すべてを受け止めようと感じました
That’s all right!

 これも自分に対しての態度とも受け取れるが、もっと広い意味でその人の正直さや誠実さに触れて、信じようと思う心を歌っているような気がする。別に正直じゃなくったって自分には関係ないんだけど、でも嘘をつけないあなたを見れてよかった、というような。

 社会で生きていく時、このような社会的な喜びを感じられなかったとしたら、それはとても辛いことだろう。友達が話しかけてきても五月蠅いだけ、保護者に叱られても苛立ちを感じるだけだ。社会的な喜びを感じられるということは幸福につながっている。

 余談だが、このようなことを考えるきっかけは「ケーキの切れない非行少年たち」という本を読んだことだ。この本では、非行少年と言われる少年たちはそもそも家庭環境や学習に困難があるということが書かれている。彼らは基本的な読み書きに困難があり、ケーキを三等分することすら難しかった。

 わたしは言葉について考えてきた。その時に常々思うのが、言葉や学習は単純な学力の指標だけでなく、もっと大きなこと、つまり生きるうえでの喜びに関わっているのではないかということだ。それはある特定の少年たちだけではなく、どんな人にも当てはまることだ。学習とは何を育むことで、それにはどのような方法があるのか、まだまだ問いは尽きない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?