大人になるって

「何歳までにしないと手遅れ、間に合わない。」

そういう言葉を疑いながら生きている。

多分それに全然間に合っていない自分と、間に合わないながらもやってきたことが全部無駄ではなかった経験がそう思わせるのだと思う。

人の脳は○○歳までには固まる、成熟するから、何かするならそれまでに。

これはよく言われることだが、自分の経験を振り返って見ると実際そんなことはなかった。

わたしは成熟といわれる年齢より数年遅く、人生の賭けぐらいの一念発起で大学院に進んだ。大学院という場所ゆえ同級生はいろいろな年代の方がいたが、わたしより若い同級生と比べても機能的な衰えは感じなかった。「○○歳までにやらなければ遅い」に疑いを持ち始めたのは、この経験があるからだ。


社会に出てから、「大人になるとはどういうことなのか」ということをとてもよく考えるようになった。そしてそれを考える時「始めるには遅い」ということについても同時に考えるようになった。

大人ではなかった時、大人とはもっと落ち着いていて自分の考えがあって、確かなものだと思っていた。しかし実際に自分が大人になってみると、そうではなかった。

わたしはもういい年齢なのだが、いまだに見た目は大学生ぐらいに見られることがある。これは自分では結構こたえることなのだが、しかたがない。そういう時に、例えば、髪を長くしてみたり、人目につくような服や小物を身につけて見れば、やや大人に見えるだろうと思うこともある。

 ただそういうものは自分は好まないので、身に着けない。これがわたしが大人になれない理由だろう。大人になるには、ある程度大人にしていかなければならないのだ。顔つきや滲み出る雰囲気だけではなく、小物で。

 もちろんそれだけではごまかせない。でも人のことをそこまでちゃんと見られる人もそんなに多くはない。そうであれば、わたしもいつかは、小物で大人になることを選んでしまうかもしれない。まあ絶対ないだろうけど。

 「○○歳までに」と言われる理由はここにある気がした。何かを学ぶということは、裸でなければならない。これはもちろん比喩だ。つまり学ぶ時には何も持っていない自分を受け入れなければならない。先人や書籍の言葉を読むとき、謙虚でなければその言葉が読めない時もある。学ぶ時には小物は放り出さなければならない。

 これは物だけではなく、ある意味では自分の培ってきたものもそうかもしれない。社会に出てからの経験や知識で自分自身が太くなった。わたしはそれでも書籍や先人の前では、一人の華奢な自分だ。そうでなければ、ものが考えられない。

 わたしは大人になって、あの頃のように学ぶことができているのだろうか。おそらくその答えは、身体の機能的なものよりも、もっと本質的な姿勢のようなところにあるのかもしれない。さらにいえば、それが体力なのかもしれないが。

 大人の社会で、着の身着のまま、柔軟な自分で生きていくのは本当に大変なことだ。固い護りを身に付けなければならない時もある。それでもやはり、自分自身を見失いそうな時は、小物を放り出して柔軟な自分で考えることがわたしのやり方なのかもしれないとも思ってみるのである。

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