新芽が出ますように

まちをつなぐ幹線道路を車で走っていると、美しい街路樹が並ぶまちなみから、突然、枝が切断され、ゴツゴツとした幹だけの木が並んでいる地域に入り、景色の差に驚くことがある。そこにはさまざまな原因があると思うが、地域住民のまちづくりに対する姿勢が、この差を生み出している場合がある。

阪神淡路大震災以降、「協働」という言葉が頻繁に用いられるようになり、約20年が経つ。行政と市民が一緒になってまちづくりをする。というような意味で用いられるが、残念ながら、そこに含まれている本当に目指すべき方向性がほとんど理解されておらず、市の協働担当課と一部の市民だけが奮闘しているのが現状である。

近年、日本の人口減少に伴い、かつてはなかったさまざま課題が発生している。特に地方都市や里山における過疎化は、いうまでもなく深刻な問題だ。

僕も含め、一般市民はこれまでの人口増加社会の中で、個人的な利害に関すること以外はすべて行政の仕事として追いやることに慣れてきた。それに応じて、地方自治体の業務はどんどん膨らみ続けてきたが、地域の人口が減少に転じると、地方自治体の職員数も減らさざるをえなくなり、そうなると当然「さあどの部署から削る?」と行政サービスを絞らざるを得なくなる。

この行政サービスの低下を補うのが「協働」の考え方である。これまで行政が当たり前にやってきたことを、少しずつ市民が負担する。ボランティアでももちろん良いが、本当はそういった市民活動の方が専門知識やスキルを蓄積しやすくなるので、高いレベルのサービスを提供できる。そして、その対価をしっかり確保しながら継続的に運営できる体制を整えるべきであり、実際、行政と業務提携してうまく回っているケースも増えつつある。ただし、仕様書通りの最低限の仕事、少しでもコストを下げて儲けようとする考え方ではなく、市民やまちにとってより良いと思える仕事を積極的に行うことが必要だ。ちょっとした心の持ち方で協働は推進できる。むしろこうやって、行政の仕事をどんどん民間側に引き取っていき、「小さな行政」を目指すことこそが「協働」なのである。公・民ともに、協働の意味を理解し、NPOや市民団体などがしっかりとした力を持っていれば、行政サービスが低下しても、地域の住み心地は維持され、新しい活動の芽も育ちやすい。逆に、そういった能力を持たなければ、地域の住み心地は低下し、さらに転出者を増やすことにつながるだろう。

街路樹が美しい地域では、枯葉が落ちたとき、地域住民が自分たちの手で清掃活動を行うらしい。一方、ゴツゴツの幹だけが並ぶ地域では、枯葉が落ちていると市役所に電話を入れ「市の街路樹から出たゴミは市で掃除してください。」と市にその責任を負わせる。市役所は、枯葉が落ちる度に掃除することは手に負えず、枝を全て切ってしまうという選択する。なんと悲しいことか。

どこまでが自分事で、どこからが他人事かをはっきりさせ、仕事をよそへ追いやることは簡単である。しかし、地域のことを誰かのせいにするのではなく、「自分事」として捉え、みんなで解決する。それによって美しいまちは形成されるのだ。枯葉が落ちるまちには、きっと新芽も期待できるだろう。

(2016年3月30日 京都新聞掲載)

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