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【軽羹読書録】ヴィヨンの妻

ご機嫌よう。kalkanです。
東京は蒸し暑くて朝から汗をだらだらかきながら出勤しましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか・・・。

そんな今回は太宰治の「ヴィヨンの妻」を読了いたしました。

ええ、完全に太宰沼にハマっております。

なんでしょうか・・・決して明るくない世界観と、この梅雨の雰囲気がどうにもマッチしてしまい、なかなか抜け出せず。

基本的に好きな作家が出来ると、いわゆる「作家読み」しがちな傾向ではあるのですが、それにしてもハマりすぎだな私。

そんなわけで、今回もお付き合いいただければ幸いです。

【あらすじ】

新生への希望と、戦争の後も変らぬ現実への絶望感との間を揺れ動きながら、命をかけて新しい倫理を求めようとした文学的総決算。
新潮文庫「ヴィヨンの妻」より

私が読んだのは新潮文庫から出ているもので、表題作の「ヴィヨンの妻」以外にも何作か掲載されている一冊。

今回は「ヴィヨンの妻」にフォーカスを当てて感想を述べようと思うけれど、個人的には「トカトントン」も心に刺さった。
三島由紀夫の「仮面の告白」の後半部の主人公と、「トカトントン」の手紙の青年がなんだか重なってしまって。これについても改めて書きたいなと思う。頑張りたい。

閑話休題、本題へまいります。

【ヴィヨンの妻】

「ヴィヨンの妻」は、太宰が亡くなる一年半ほど前に書かれた作品だそうで、「死」に対するというよりかは「生きてさえいればそれでいい」というニュアンスを感じる作品。

何度も命を絶つことを考えていた太宰でも「生きてさえいれば」という希望のようなものを持ち得ていたのだなと思うと、ほっと安心するような、残念なような、複雑な気持ちになる。

【"ヴィヨンの妻"であるさっちゃん】

世間知らずで、純朴なまま過ごしてきた主人公であるさっちゃんは、ただただ健気な若奥さん。

印象的だったのは、子供と吉祥寺の井の頭公園へ行くシーン。

どこへ行こうというあてもなく、駅のほうに歩いて行って、駅の前の露店で飴を買い、坊やにしゃぶらせて、それから、ふと思いついて吉祥寺までの切符を買って電車に乗り、吊皮にぶらさがって何気なく電車の天井にぶらさがっているポスターを見ますと、夫の名が出ていました。それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」という題の長い論文を発表している様子でした。私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。(126ぺージ)
「ヴィヨンの妻」より

太宰がモデルか?と思しき主人公の奥さんたちは、みんな旦那に翻弄されて苦労しているけれどどこか強くて。だけど弱くて。

さっちゃんはその中でも特に強くて弱い。それが、この吉祥寺へ向かう電車の中での出来事に現れているように感じた。

「何も考えずにあてもなく電車に乗る」ということは、一見すると本当に何も考えてないように思えるけれど、「子供を連れて出かける」という点から本気度が窺える。

つまり、ある程度の覚悟を決めて吉祥寺に向かった。
だけど、雑誌に見つけた旦那の名前を見て涙が出てしまう。
人間だもの。そして若い。世間を知らない無垢なさっちゃんは、自分でも何に対して涙を流しているのかいまいちわかっていなかったんじゃないかな。
ここで流した涙は、ヴィヨンの妻と自分とを重ねた悲しみによる涙だけじゃないと思う。

そんな「世間知らず」といえば、同じく太宰の『斜陽』に出てくるかず子も世間知らずである。

そこでkalkanの勝手に妄想読解タイム。
二人を勝手に比べてみようと思います。

【さっちゃんとかず子】

さて、二人とも世間知らずなわけだけれど、どうにもこうにも印象が違う。
まぁ、作品も背景も状況も何もかもが違うから、当たり前っちゃ当たり前なんだけれど、二人の何が違うのか。

『斜陽』の中で、かず子自身が世間知らずであることをお母様と語るシーンがある。

「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」
 と言い、それから、もっと言いたい事があったけれども、お座敷の隅《すみ》で静脈注射の支度などしている看護婦さんに聞かれるのが恥ずかしくて、言うのをやめた。
「いままでって、……」
 とお母さまは、薄くお笑いになって聞きとがめて、
「それでは、いまは世間を知っているの?」
 私は、なぜだか顔が真赤になった。
「世間は、わからない」
 とお母さまはお顔を向うむきにして、ひとりごとのように小さい声でおっしゃる。
「私には、わからない。わかっているひとなんか、無いんじゃないの? いつまで経《た》っても、みんな子供です。なんにも、わかってやしないのです」
『斜陽』太宰治

世間知らずであることを恥じるわけでもなく、そもそも世間というものをわかっている人なんてこの世にいないと言い切るお母様。

このあとかず子は貴族である人生を捨てて、自分の恋の革命のために動き出すわけだけれど、そこでこんな発言をする。

けれども、私は生きて行かなければならないのだ。子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。
『斜陽』太宰治

『恋の革命』をすることを決めたかず子は、世間知らずであってもなくても、とにかく自分の目標のために突き進むと決める。非常に前向きな姿勢。

実際、かず子は革命を起こして恋を成就させる。そしてそのことを後悔などせず、最初から決められていたかのように、自分の決めた道を進んでいく。

一方さっちゃんは、自分の気分転換と旦那に会うという二つの理由を持って椿屋で働きはじめ、つまり世の中に出て、世の中を自ずと知っていくことになった。

するとどうだろう、世の中は汚いことだらけで、後ろめたいことを感じていない人間なんて居ないことを知ることに。

そしてさっちゃん自身も悲しく辛い思いをする羽目になってしまった。

そして出た言葉が、

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえいればいいのよ。」
『ヴィヨンの妻』太宰治

この一言に、世間を知ったさっちゃんの思いが全て詰まっている。

諦念。「生きてさえいればいい」という、もはや惰性で生きていくという意味にすら感じる表現。

斜陽のラストが雨上がりであるならば、ヴィヨンの妻のラストはジトジトと降り続く梅雨の日のよう。

そして、改めて「女性になりきる」太宰の凄さを感じた。なんでこんなに女性の気持ちわかるくせにダメ男だったんだろうか、太宰は…。

【軽羹感想録】

そう、後味はよろしくない。まったくもってよろしくないけれど、だけどどうにも後を引くというか。

実はこれを読んだら坂口安吾を読むと決めていたんだけれど、何故か人間失格を読んでるなう。そう、太宰ループから更に抜け出せなくなってしまった。

やっぱり6月のジメッとした天気には太宰が似合う。
色んな意味で今月は太宰月間なんだと、もう諦めようと決めた。(積読消化を諦めたの意)

ってなわけで今回はここまで。
今回もお付き合い頂きありがとうございました。

またお会いしましょう。kalkanでした!

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