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簡雍さんは考えた。(短編の11)

簡雍は考えた。
風評のちからとは、こんなにも強いのか。
しかして、こんなにも脆く感じるものか。
このちからは、果たして、
使うべきか使わざるべきか。
目の前の青年たちの息巻く視線を受けながら、ぐいと杯を干すのだった。

劉備は為政者となった。
徐州牧を陶謙より譲り受け、
名士である、糜竺、陳登らを幕下に加え、
彼らをよく用いた。
糜竺は徐州屈指の富豪であるし、
土地の風習にも明るい。
公正な判断でどんな争議も上手く収めた。
陳登(字を元龍)は思慮深く、
胆力もある人物だった。
陶謙の代から典農校尉を勤め、
彼の丹念な政務により収穫は安定した。
また、軍備にも明るい。
この2人はよく名が知られていて、
民衆からの信頼はすこぶる厚い。
そしてそれを従えた劉備の風評は
徐州において、上がる一方だった。

どちらがどう、ということでは無いが、
簡雍は、陳登の方に聡さを感じ、
糜竺に堅さを感じた。
糜竺は生来、商売を生業としている。
商いは信用が第一であるから、
堅実であることは彼の第一義なのだろう。
陳登は軍も見ていたから、
いくらか臨機応変だ。
しかしその思議の深さは、本来軍人のものではなく、学者のそれである。
関張趙の三将軍が軍部に就き、
肩の荷が降りたようだった。
まずは陳元龍と杯を交わしてみたい。
やはり簡雍の興味の蝕指は
より柔軟そうな方に向く。
再三誘いをやるも、
主公が変わったばかりである。
当然の如く先方は多忙を極める。
丁重な断りが来るばかりだった。
仕方が無いから、一人で酒場に出た。
そこで、街の若者に捕まったのだった。

酒場の敷居を跨いだ途端、
見ない顔だな。
と言わんばかりの視線が、
痛いほどに刺さった。
ここの所、徐州は戦続きである。
州牧が変わって浮ついてもいるが、
こと余所者には疑りの目が向く。
しかし、民の暮らしぶりには余裕がある。
余裕があるから、法を犯そうとするものは
少ない。
治安というものは、民の腹具合に
大いに関わっているのだ。
かかってくることなどは、まぁあるまい。
そう思い、宅につき酒を頼んだ。
ふと故郷の幽州を思い出す。
寒く冷えたあの土地では、収穫は多くない。
烏丸(異民族)の進攻も度々あったから、
治安も乱れる時期が長く続いた。
そんな中で、今考えれば
結びつきに重きを置く色が
あったように思う。
劉備、関羽、張飛が義兄弟となったのも、
幽州の土地の習いとも言えるわけだ。
余計に田豫の顔が浮かんできた。
今頃何をしているか。
そう考えながら
酒を運んできた娘に礼を言うと、
はっとした顔をされた。
「あなた、幽州の人?
もしかして、大耳公のお付きかい?」
故郷を思いながら、つい訛りが出たのだろう。
さすが盛場。めざといものだ。
と驚く。
大耳公とは、劉備のことで、
耳が垂れるほど大きいから、
敬意と愛着を込めて
いつの間にか付けられた異名である。
「お付きというものでは無いが、
まぁそうだ。」
と、応えたのが運の尽きだった。
あっと言う間に囲まれた。
「大耳様は、どんなお方だ?」
「この先我らの為に何をしてくださる?」
「次はあの曹賊に勝てなさるか?」
唾と一緒に、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
これほどの期待か。
と更に驚くと共に、この熱量は
尋常ではない、とも思った。
劉備は徳の人である、
というのが、衆目の一致するところである。
治世はこれが初めてだが、
仁義に厚いという風評は既に広まっていたから、目下の良政と相まって
民の期待は更に加熱しているようだった。
玄徳が神通力でも持っていると
言わんばかりだな。
簡雍は戸惑った。
玄徳は従兄弟だ。もちろんただの人だ。
確かに類を見ない大らかさと狭気は
人を惹きつけるし、
掴みどころの無い面白みに
興味は尽きない。
だが、ただの人である。
これが、風評の力か。
まるで神仙を見るかのような
数多の視線に、寒気すら覚えた。

なるほど、
民草にとっては、腹を満たす粟や稲が、
それらと交換できる銭が、
目の前の「実」である。
彼らに、政は見えない。
「虚」なのだ。
それを執り行う人もまた虚。
仙人も同じである。
天子もまた、この理の上に立っているだけ
なのだろう。
「天」の「子」とはよく言ったものだ。
これは怖い。
と簡雍は思った。
この期待に応えることができなければ、
この期待が失望にかわるとすれば。
彼らはまた黄巾を掲げるのだろうか。
だが、逆に彼らは劉備にとっての
力でもあるはずだ。
民力は兵力。
あの張飛がそうであるように、
彼らもまた、劉備の尖兵となるのだろうから。
これが為政者か。
簡雍は唾を飲んだ。
この風評を使えば、曹操に対抗できるか。

すると、
人混みをかき分け、少女が顔を出した。
身なりはお世辞にも良いとは言えない。
じっと簡雍を見つめている。
目があった。
「お父が戦で死んだ。
お母は、大耳様が殿様になったから
もう大丈夫だと言ってるけど、
本当?」
震えた声だったが、真っ直ぐな問いだった。
はっとした。
頭を殴られたようだった。
曹操軍の強さを見た。
田豫がいなくなった。
焦っていたのだ。
民の暮らしを、この少女の未来を、
守る為に劉備は立ち上がったのではなかったか。
風評を使って虚の力を振り翳したとて、
それは虚勢に過ぎないではないか。
虚を使って、実を作ってこそ、
民に報いることではないか。
それが、為政者の為すべきことだ。
簡雍は少女をそっと抱きしめた。
「申し訳ない。
大丈夫とは言えないのだ。
今は乱世だから。」
「だが、大耳公は、
精一杯やって下さるだろう。
精一杯皆の声を拾って下さるだろう。
あの方には、
大きな大きな耳があるのだから。」

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