「ぽい」「〜っぽい」「ぽさ」って何??
「人間っぽい」
「人形っぽい」
「男っぽい」
「女っぽい」
「犬っぽい」
「猫っぽい」
「伝統芸能っぽい」
「文楽っぽい」
「東京っぽい」
「日本っぽい」
「ぽさ」ってなんだろう。
「弱法師」に音楽担当として参加した昨年から、この「ぽさ」に違和感を感じ、時には「ぽさ」を受け入れその渦に飲み込まれ、
「ぽさ」に抗ったり、「ぽさ」に殴られたりした1年だった。
「ぽさ」というのはラブドールの表面に滲み出た油みたいなものか?
「清潔」と「清潔感」の違いみたいなものか?
「ぽさ」は偽物なのか?
「ぽさ」は本物にはなれないのか?
「ぽさ」は何年経ったら本物になれるのか?
そもそも「ぽさ」は本物なんかにはなりたくないのか?
「ぽさ、〜っぽい」を検索してみた🔍
っぽ・い
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[接尾]《形容詞型活用》名詞や動詞の連用形などに付く。
1 …を多く含んでいるという意を表す。「粉—・い」
2 …の傾向が強いという意を表す。「俗—・い」「飽き—・い」「荒—・い」
「多く含んでいる」「〜の傾向が強い」
必ずしも「本物」である必要はない。
男が「男っぽい」仕草をする。
女が「女っぽい」仕草をする。
ドラえもんが「ドラえもんっぽい」仕草をする。
やはり、表面にジワっと浮いて来るラブドールの油のように感じる。
「ぽさ」は、いくつもの状態や条件が幾重にも重なり浮かび上がる概念なのか。
オヤジが言うギャグはいつから「オヤジギャグ」という概念になったのだろうか。
「伝統芸能っぽい」「文楽っぽい」ってどんな状態を指しているのか?
どんな要素が重なりあっているのだろうか。
そもそも重なり合うほど「伝統芸能」や「文楽」の事を人々は知っているのだろうか。
「弱法師」における「伝統芸能っぽい、伝統音楽っぽい」というのは「琵琶」ではなくて、もしかしたら「三味線」の要素なのかもしれない。
「琵琶の音」より「三味線の音」のほうが耳にする機会があるのだとしたら、
(琵琶は三味線より古くから日本に存在しているが)
「琵琶」は「三味線っぽい音」と受けとられてもおかしくはない。
何かの音楽に溶け込んでいる音を「これは琵琶だ」と探し出せるほど人々は「琵琶の音」を知っているのだろうか。
私が「弱法師」で求められていたのは「文楽っぽい音」「三味線っぽい音」で「薩摩琵琶の音」では無かったのか?
「琵琶の音」よりも難航したのが「間(マ)」の概念を知ってもらう事だった。
フランクフルト初演からスパイラルホール公演まで「間」はこういうものだと表現してきたが、伝わらなかった。
「間」とは何だろう。
「間」を言葉にしたところで「間」は手からするりと滑り落ちてしまう。
「間」は伸び縮みする。
「間」はその時々で変化する。
「間」はカウント出来ない。
「間」は事前に決めたとたんに存在を消してしまう。
伝統楽器薩摩琵琶楽の「間」は「音」よりも珍重される。
大切なのに重要なのに書き記せない。
感じる事が重要で、
考えていては遅すぎるのだ。
「間」の効能は「緊張感」。
その時に効く「間」は1回限りで次回には効かなくなってしまう。
「ぽさ」の中に「間」を存在させる事は可能なのか?
世の中に溢れているカウントされる音楽の中で、「間」を失った「薩摩琵琶」は「薩摩琵琶っぽく」生きていくのか?
それは生きていると言えるのか?
「薩摩琵琶っぽい」と言ってもらえるほど、人々は「薩摩琵琶」を知らない。
まずは「薩摩琵琶っぽい」と言ってもらえるように、「薩摩琵琶」の概念を増やして行かなければいけないのだろうか。
それは、「薩摩琵琶」ではなくて永遠の「薩摩琵琶っぽい」何かなのかもしれないが。
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