西原鶴真

薩摩琵琶鶴田流演奏家 ASDです https://www.kakushin.net/…

西原鶴真

薩摩琵琶鶴田流演奏家 ASDです https://www.kakushin.net/ bandcamp https://kakushinnishihara.bandcamp.com/

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「カッコいいババアが足りない」

カッコいいジジイは居るのに、 カッコいいババアが足りない。 美魔女とか、 ロリババアとか、 いくつになっても男性から性的に見られるとか そういうんじゃなくて。 「SAND LAND」(鳥山明による日本の漫画作品)に出てくるシバ将軍のような、 顔面に深い皺が刻まれた苦みばしった賢いババア、 そういうカッコいいババアが主人公の物語りが、 圧倒的に足りないのだ。 女の子には“多様なロールモデル”が必要なんじゃないのか、何故そういう物語りが少ない(ほぼ見当たらない)のか。 「

    • 「ドーナツの[穴]を琵琶の[間]に置き換えてみよう」

      伝統芸能の中で伝承され続ける[間(マ)]の正体とは何か。 私の中にある「体験としての[間]」が何であるのか、[間]についての考察を以前noteに書いてみた。 あれから、私の中の[間]は増幅し続けている。 そんな時にこの本に出会った。 「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」 大阪大学ショセキカプロジェクト この中に書かれている、 「ドーナツとは家である(美学の視点からドーナツの穴を覗く試み)」 ([田中 均]大阪大学大学院文学研究科准教授) に、一つの答えを見出した。

      • 「私のwiki」

        コレ、私のwikiなんですが、最近ジャンルにノイズミュージックが加わっていたんです。 誰かが書いてくれたんですね、めちゃくちゃ嬉しかったです。 wikiは誰かが勝手に作り上げるものだけど、もちろん審査が入ったりするので、ノイズミュージシャンって認めてもらえて嬉しいです。ありがとうございます。

        • 「私の脳内では今も雛壇が高速回転している」後編

          私の中にいる巨大な雛壇(女の子の呪い)を回転させるために、 私は音楽ドラマを作った。 「Curly long Hair and Huge big Ribbon」(くるくるロン毛とデカりぼん)というタイトルの音楽ドラマを毎週1話(1曲)づつbandcampやiTunesなどで配信し、 3月3日全21話(21曲)で無事に最終回を迎えた。 物語りは、 第1話「How to make diamond-shaped rice cake(菱餅の作り方)」から始まり、 3人官女がお酒

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        「カッコいいババアが足りない」

          「私の脳内では今も雛壇が高速回転している」前編

          雛祭り、 女の子のお祭り。 私は雛祭りが苦手な女の子だった。 自分が女の子って呼ばれる事に違和感を感じていた。 初潮を迎えた時、お母さんがお赤飯を買ってきて「おめでとう」って言ったけど、 何がおめでたいのか分からなかった。 赤い雛壇も、 赤いランドセルも、 赤い生理も、 大嫌いだった。 14歳の頃、 「田園に死す」という映画を観た。 川から雛壇が流れて来るあのシーンを観た時、 自分の中にいる雛壇をどうにかしなくてはいけないという気持ちになった。 雛壇に車輪を付けて

          「私の脳内では今も雛壇が高速回転している」前編

          「私達のオーガズムってめちゃくちゃ似てるよね!」

          「間(マ)」についてnoteに書いた後、 「どうしても本物に思えてしまう間」と「どうしても偽物に思えてしまう間」について考えていた。 世阿弥が「風姿花伝」の中で[時節感当]と言い当てたアレである。 時を当てて行く、最初の一音だけではなく、常に時が当たる瞬間を確かに舞台上では感じるのである。 姿形の無い、目に見えない「間」に本物と偽物があるなんてなんだか変な話だが。 何故そのように感じてしまうのか、 そのように感じる感覚はいったいどのあたりからやって来るのか。 考える

          「私達のオーガズムってめちゃくちゃ似てるよね!」

          仮説「ポチのようなもの」

          「間(マ)」とは何か? 本物の「間」と偽物の「間」があるのか? 見えないのにたしかに「間」があるという感覚はどういった感覚なのか、 の問いの末に辿り着いた古代神道。 開祖も教義も何も無いないないづくしの古代神道を考える。 何にも無いのに何かあると感じてしまうのは何故なのか。 仮説「ポチのようなもの」 農家の松蔵一家が飼っていた犬のポチが死にました。 娘のハツはポチを大変可愛がっていたのでひどく落ち込みました。 ある日、松蔵の妻のヨネは娘ハツのために灰色の布でポチにそ

          仮説「ポチのようなもの」

          「間(マ)」とは何だろう

          前回「〜っぽい」「〜っぽさ」について  noteに書いてみたが、 書いていたら益々「間(マ)」の正体が何なのか気になってきた。 音と音とのあいだ、 物と物とのあいだ。 そこには何も無いのだろうか? 見えないけど、聞こえないけど、 何かがある(居る)のだろうか? 古代の日本人から伝統芸能の世界へと受け継がれた『間』という概念は、空間を埋め尽くす西洋音楽によって、失われつつあるのかもしれない。 そもそも『間』は手に取れない、 感じるのに形としては見えないし、聞こえない。

          「間(マ)」とは何だろう

          「ぽい」「〜っぽい」「ぽさ」って何だろう

          「人間っぽい」 「人形っぽい」 「男っぽい」 「女っぽい」 「犬っぽい」 「猫っぽい」 「伝統芸能っぽい」 「文楽っぽい」 「東京っぽい」 「日本っぽい」 「ぽさ」ってなんだろう。 「弱法師」に音楽担当として参加した昨年から、この「ぽさ」に違和感を感じ、時には「ぽさ」を受け入れその渦に飲み込まれ、 「ぽさ」に抗ったり、「ぽさ」に殴られたりした1年だった。 「ぽさ」というのはラブドールの表面に滲み出た油みたいなものか? 「清潔」と「清潔感」の違いみたいなものか? 「ぽさ

          「ぽい」「〜っぽい」「ぽさ」って何だろう