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『キッチン』

32年目の実家暮らし。

 先月定年を迎えた寡黙な父、元栄養士の母、都内で研修医を勤める弟との4人暮らし。

 私は思春期の頃、盛大にグレた。私の頭と行動のバランスがガタガタと崩れ、ほとんど学校に行かなくなったあの頃から姉弟間格差が生まれ始めたのだと思う。私と弟の間には常に一定量のプラスとマイナスしか存在してはいけないかの様に、私が堕ちる程、あどけない末っ子だった彼は自慢の息子へと変身していった。時が経つにつれて私も落ち着き、なんとなく受験した大学になんとなく通い、今や都心を少し外れたメーカーの事務をしているが、成績優秀で愛嬌のある弟が名の知れた大学の医学部に進み、ひとりでも多くの人を救うという志を持った研修医になったことに比べれば、目つきの悪い中学生が歳を重ねただけの私の経歴なんて当然霞む。

 だが、平凡すぎる家族の形はそれくらいのことで大きく歪んだりはしない。私が扱いづらい時期はそれなりに腫れ物としてあしらわれたりもしたが、仲が悪いわけでもなく、両親の関心が特段姉弟のどちらかに偏っていた時期もない。側から見れば普通の家族の日々の末に今があるだけだ。

 そんなある日、弟が冷蔵庫を開けた拍子にカットフルーツの入ったタッパーが落ち、スイカの破片がいくつか床に散らばった。横でケーキを焼いていた母が小さく悲鳴をあげる。

「やだっ、大変。」

「どうせ姉ちゃんの入れ方が悪かったんだろ。おい!気をつけろよ、片付ける人の身にもなれよ。」

状況にイラついた弟が、ダイニングテーブルで携帯を見る私に荒っぽく声をかける。

「やだもう、全部落ちちゃって…この間もお姉ちゃんがお風呂に入った後、シャンプーがほとんど切れてて、私が入れ替えたんだからね。」

「うん。」
携帯をいじりながら答える。

「おい、人が自分の後片付けしてやってんのにその程度の返事で手伝いにもこないわけ?つくづくクズだよな。ちょっとは考えて生活しろよ。」

 側から見ればただの平凡な姉弟の意地の張り合いかもしれないが、冷蔵庫が強く閉められる音が必要以上に耳につく。

「……」

「ちょっとは謝ったら?黙ってないでなんか言えよ。」

「…」

「なんで謝らないんだよ。」

平凡な日々の割れ目から、ドロドロと言葉が流れ出る。
「一昨日…母さんが作ったおかず、あんたは後で食べるって母さんに言ったのに、一口も食べずに、さっきそこのゴミ箱に捨ててたから。」

「は?笑」

「先月の…父さんの最終出社日の夜。あんたはデートで家にいなかったから。」

「お祝いは別の日にしただろ。てかなんの話。」

「15年前…」

「15年前?笑」

「あんたが夜中に父さんの財布から5000円抜き取ってたから。」

「呆れる。ダラダラ意味分かんねえ、ほんと頭悪いよな。」

ケーキ作りに戻っていた母親がケタケタ笑いながら口を挟む。

「2人ともやめなさいよ。お姉ちゃんはそうやって細かいことばっかり根に持ってると、本当にモテないわよ?ただでさえ32年間貰い手もないのに。自分が悪いことをしたら、謝る!人間の基本じゃない。キホンキホン。」
そう言って、私の前に布巾を置く。

「うん。」

 私は布巾を手に取り、床についたスイカの水滴を拭き始めると、弟は納得した顔でキッチンを去った。

 この翌週、目に見えるところの掃除は抜群に得意なのに、収納だけ苦手な母が散らかした冷蔵庫の中を綺麗に整頓して、私は家を出た。ここより息の吸いやすい場所を探して。

親孝行、誠意、優しさ
目に見えないそれらは、一体どんな形をしているのだろうか。


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