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北海道ツーリング ①

病院から出ると雨が降っていた。
目の前のアスファルトは溜まった雨水で鏡のようになり灰色の空を僕の足元に映していた。
病院の門の脇にある屋根付きのバス停まで行くと、帽子をかぶり白いマスクをした年老いた男性が一人ベンチに座っていた。
「こんにちは」と声をかけると男性は視線だけを向け、僕の固定された右手首に目を落とすと「こらどうしたんですか?」といって小さな目を少しだけ大きくして顔をこちらに向けた。
「骨折しちゃいまして」
そうと言うと、男性は「そうですかお大事に」と表情を崩さずに小さく頭を下げた。


 退職を決意した春から準備を始めた。そして7月に二十年勤めた仕事を辞めた。
バイクを買い、キャンプ道具を押入れから引っ張り出した。無職なのをいいことに期日を決めずに夏の間は走れるだけ走ろうと野営道具を満載にしたバイクを走らせ、まずは友人に会いに京都に立ち寄った。夕方には蒸し風呂のような京都を抜け出して舞鶴へ向かった。陽も落ちた頃、多くのライダー達とともに深夜発の北海道行きのフェリーに乗り込んだ。

 出航前にフェリー内の風呂に入り汗を流すと、Tシャツと短パンのまま首にタオルをかけて後部甲板に出た。
深い入り江に位置する舞鶴港は海が鏡のように平らだった。
深夜零時。
フェリーは鏡の上を滑るように音もなく離岸した。陸地はゆっくりと僕から遠ざかった。
火照った体を潮風が撫でて冷やしてくれた。
気がつくと陸地は暗闇に溶けて見えなくなっていた。低く呻くようなフェリーのエンジン音とともに船体が海をかき乱す音だけが暗闇に広がっていく。
フェリーが描く白い航跡はその暗闇の奥へと続いていた。
僕はそのまま甲板に立ち続け、いつまでもその白い航跡を見つめた。

翌日の夜に北海道の小樽に到着した。真夏なのにひんやりとした空気に北海道を実感し、そのままゲストハウスへ向かってバイクの荷を解かずにチェックインを済ませた。寝室に入ると上段にはドイツ人が寝ていると聞いていた二段ベッドの下に静かに滑り込みすぐさま床に就いた。
夜明けとともにゲストハウスを飛び出し、荷物を積んだままのバイクにまたがり出発した。
十年ぶりの北海道に興奮し、ヘルメットの中で独り言を言いつづけたが、黙るとすこしだけ涙が流れた。
日が傾きだした16:00ごろ、平取町までたどり着いた僕はそこから少し先のオートキャンプ場で受付を済ませた。
そこは十年前にも利用したキャンプ場で、場内には温泉があり快適だった覚えがあったからだ。
バイクから荷物を降ろしフリーサイトにテントを張り終わると、さっそく場内の温泉に向かった。
十年前に温泉だった建物は新しく建て替えられてすこし場所を移していた。
三人ほど並んでいた券売機の列に立つと真新しいロビーを眺めた。まだ日が落ちきっていないのかロビーに人はまばらだった。
券売機で入浴券を購入すると、靴を脱いでロビーに上がった。
下駄箱に靴を入れ、ロビーに戻ると、踏み出した右足が床を踏む感触を得られないまま背中から床に倒れた。床に付いた右手に激痛が走り、倒れたまま手を目の前に持ってくると手首がいつもと違う角度に曲がっていた。
こうして僕の北海道ツーリングは1日で終わった。

 

 雨が強まりバス停のトタン屋根に打ち付ける雨音が強くなった。
男性の隣に座った僕は黙って雨に濡れる静かな平取の町通りを眺めていた。
平取国民健康保険病院の周りは人影もなく、車さえも通らない。
僕はただ雨音だけを耳に馴染ませようと水たまりに広がる波紋を見つめた。
「病院の帰りですか?」
僕は雨音に負けない程度に大きな声で男性に言葉をかけた。
「ああ、カミさんが入院していて毎日お見舞いに来ているんですわ」
というと男性は一気に話を始めた。
「最近まで車で来ていたのに、ペースメーカー入れたら医者は運転してはダメだ言うんだわ。なんとか許可もらえませんかとお願いしたっけダメだぁダメだぁ言うんです。したからこうして日高町からバスで毎日病院へ来とるんだわ」
男性はそこまで言うと深く息を吸い込んで静かに吐き出した。マスク越しだったのでメガネが曇った。
男性は自分の番かと思ったのか
「どちらからですか?」と聞いてきた。
「栃木からです。旅行中なのに災難でした」
と言って僕は包帯で固定された腕を男性の顔の前まで持ち上げた。少し痛かった。
「内地からですかぁ。わたしは平取で生まれて平取で育ったから内地には一度も行ったことないんですわ。戦争の時は空挺に志願せえ志願せえいわれたんだが家のもんはいなくなったら困る言うので空挺には行かなかった」
「そうですか」と僕は二度ほど頷いて、男性のかぶっている帽子に目を向けるとKOMATSUのロゴが大きく刺繍されていた。

男性は話を続けた
「親父の実家は新潟で、弥彦神社っちゅう有名な神社のそばにあると聞いたけど結局行ってないですな。わたし庄司と言うんですが、そこ行って庄司といえばすぐわかると言ってましたが、もうわたしは来年90になるから今更内地に行くのは無理ですなぁ」
と言って男性は短く笑った。
すると笑った男性の後ろにバスの姿が見えた。

 道路に溜まった雨水を削るような音を立てて近づいていたバスは、点滅せずに常時点灯したウインカーを灯しながら僕達の前に停車した。
雨水を振り払うように勢いよく乗車口が開いた。
僕は「お先にどうぞ」と庄司さんを促すと「わたしはいいよ、あなた乗って行きなさい」と言った。
「乗らないんですか?」と聞き直すと「いい、いい」と手を何度も横に振った。
「それじゃあ、お先に失礼します」と僕は乗車口のステップに足を掛けた。

もう一度僕はバス停のほうを振り返った。

ベンチに座ったままの庄司さんは、右手を軽く自分の頭まで上げた。

そして僕に向かって小さく頭を下げた。

※登場する人物は仮名です


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