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父を偲んで

末期がんだった父が、もうそろそろだろう、というのはわかっていた。

2014年8月、新卒1年目だったわたしは、配属が決まった宇都宮で一人暮らしを始めたばかりだった。その日、早朝に母からの電話を受けたときも、アパートで寝ていた。

支度をして駅に向かい、新幹線で大宮へ30分、在来線でさらに30分。気持ちがどんなに急いでも、電車のスピードは早まらない。

病院のある駅で降りて、タクシー乗り場まで走った。わたしの強張った表情と行先の病院名からすべてを察したドライバーは、スキルとノウハウの限りを尽くして目的地へ飛ばしてくれた。そして到着直前に、メーターを1000円ぴったりで止めて、会計の用意を促した。車が止まるなりお札一枚置いて飛び出せるように。

早朝の病院の、誰もいない長くて広い廊下を、全力疾走した。肺が痛くて苦しくて、泣きながら、父のいる病室を目指した。


病室のドアを開けたとき、ちょうど看護師が主治医を呼びに向かっているところで、ベッドの傍には母と姉が座っていた。そこに横たわる父の呼吸は、もう止まっていた。

冷たくなりはじめた肌の、まだ熱を持っている場所を探して、さわって、大声で泣いた。

主治医がやってきて、脈拍がないことを確認し、臨終を告げた。その瞬間に彼の腕時計が指していた時刻が、父の亡くなった時刻になった。
ドラマで見るように、心電図が突然ゼロを示すのを想像してたけど違った。人の死の瞬間は思ったより曖昧なのだなと、他人事のように思った。

◇◇◇

誰かが亡くなるとき、故人に近い人ほど忙しくなる。葬儀業者は事前に決めてあったものの、やることがたくさんあり、母はテンパっていた。

そういう人が横にいるとなんだか冷静になるもので、エクセルで見積もりをまとめたり、会社に休みの連絡を入れたり、タスクを淡々とこなしているうちに通夜当日がやってきた。


父の希望に沿って、親族とごく親しい友人のみに呼びかけ、小さな会場で執り行った。

お通夜だというのに友人たちは日本酒やワインを持参してきて、にぎやかな宴会の場となり、酒飲みだった父にふさわしい光景だった。

告別式では、父に宛てて書いた手紙を読んだ。葬儀の日取りが決まってから、夜中にひとりでパソコンに向かって、生きてるうちにかけてあげたかった言葉を並べたものだ。

◇◇◇

父とは、思春期を拗らせたまま、素直に会話ができなくなってしまっていた。

がんだと分かってから、いかにも親孝行っぽいことをたくさんした。
わたしの大学卒業前の冬に余命宣告され、楽しみにしていた卒業旅行はほとんどキャンセルしたし、入社してからの工場研修中も毎週新幹線で3万円かけて会いに行った。一時退院のときには、かなり張り切った値段のすき焼きをご馳走した。

お金と時間は惜しみなくかけた。でも最後まで、優しい言葉をかけてあげられなかった。

余命宣告されてから、自宅でたまたま一緒に観ていたテレビドラマに、花嫁が父親とともにバージンロードを歩くシーンがあった。「あさえの結婚式のときは、誰がエスコートするんだろうね」と聞かれて、「知らないよ」と冷たく言い放ってしまった。あのとき、何て答えればよかったんだろう。

「一度でいいからベネツィアに行ってみたい」と、ことあるごとに呟いていた。その夢は果たされなかった。今ならいくらでも連れて行ってあげるのに。

◇◇◇

父は変わり者だったけど、すごい人だった。

口癖のように、母のことが世界でいちばん好きで、結婚できて幸せだと話していた。娘たちのことも、世界でいちばん可愛いと言っていた。
つねに率直で、ひねくれたり斜に構えたりしたところがなく、まっすぐ愛を伝える人だった。

小学校の夏休みには、毎年、自由研究や図工の宿題を手伝ってくれた。家族での旅行や外食を誰よりも楽しみにしていた。2人で遊園地に行ったとき、高所恐怖症なのに一緒に観覧車に乗ってくれた。

わたしの出産時には、2週間の休暇を取得した。親戚も遠く、姉の子育てもあったので、母をサポートする手段として自然にそういう結論になったそうだ。1990年、イクメンなんて言葉はまだ存在しない時代だ。
あんまり常識や社交性がなかったけど、世間体にとらわれないからこそ取れた行動だと思う。

大学を選ぶときも、留学するときも、就職先を決めるときでも、子どもの選択を信じ、背中を押し、決して意見を押し付けることがなかった。

父がしてくれていたことが、どんなに難しくて貴重なことだったか、最近になるまで気付かなかった。そういうことが当たり前だという空気を作り、守ってくれていた。

父は、家族を愛する方法を教えてくれた。それは、間違いなくわたしのなかに根付いている。

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