正しい生き方なんてない
無意識に「正しい生き方」というものがあるって、みんなどこかで信じてるんじゃないかな?
でも、自分と全く同じ人間はこの宇宙に一人としていないのだから、「正しい生き方」なんて本当は存在しない。
(自分のことをよく知らない赤の他人が勝手に決めた正しさが、何故自分にとっての正しさになる?)
最大公約数の「正しさ」が、本当に私たちを幸福に導いてくれるとは限らないし、「正しい人」が幸福とは限らない。
体験する全てに優劣がないとしたら、人生にも優劣はない。
りんごとみかんに優劣がつけられないように、全く異なるものは比較のしようがない。
比較し、優劣を決めるためには基準が必要だ。
でも、人生の優劣を決める基準って???
全く異なる人々の全く異なる体験や人生は、広大で深遠で私たちの理解を超えた何かしらの意味がある。それはとてもじゃないけど、人間が両手に持てる程度の小さな物差しで測りきれるものではない。
(そもそも、優劣は比較と判断という思考によって生まれるもので、判断しなければ優劣は存在できない)
どれだけ他人にとって意味があることでも、どれだけ他人にとって価値があることでも、自分にとってはそうでないかもしれない。
逆にどれだけ他人にとって意味がないように見えても、価値がないように見えても、自分がそこに意味や価値を見出せば、それは確かに存在する。
他人に見えないものが見え、他人がそこに意味や価値を認めなくても、あなたが見ているものはあなたを見つめ返し、その意味や価値はあなたに認めてもらうのを、ゆるされるのを待っている。
ずっと待っている。
人と違うことが当たり前なら、人と違うことを恐れる必要はない。
人と同じように見せようと、表面に見える部分を擦り合わせるようにして生きる必要はもうない。
私はそれを本当に本当に辞めるためにnoteを始めたのかもしれない。
存在する価値があるものしか存在できないなら、今ここにいるだけで価値がある。私の存在そのものが私の価値なら、何があってもなくても私の価値が失われることは決してない。
そして、私がそうなら、あなたもそうなのだ。
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