見出し画像

【ア・タートル・トラップ・オブ・ザ・マーメイド】

【ア・タートル・トラップ・オブ・ザ・マーメイド】

巨大な太陽は水平線に逃げ込み、ドクロめいた月が砂浜を冷やし始めた。肉食バイオカモメはその日最後の食料を得んと、道に座り込む浮浪者を睨み付ける。一日の労働で火照った肌、重い足取り。観光客の笑い声を遠くに聞きながらウルシマは家路を急いでいた。

ウルシマの商売は単純だ。観光客に土産物を売り付ける。それもサンゴの美しい細工や高級ドライフルーツなどではない。浜でたった今拾ったような貝殻や、変色しかけた干物ばかりをなかば無理矢理押し付けるのだ。観光客の嫌悪に満ちた顔つきや同情の目線にさらされ続ける生活の惨めさを、今さら嘆くことができるほど、ウルシマは若くない。かつ生存が難しいほどの困窮に陥ったことはないという事実が、彼の頭から奮起の念を忘れさせていた。

美しい海、澄んだ空、輝くビーチ、彼は生まれ育ったこの地を愛していたが、それはあえて外に出る気を起きないという程度の、消極的な諦観からくる愛にすぎなかった。

「チッ……チッ……」舌打ちを繰り返す。通りすぎる人びとの影もまばらになり、べとつく風にかすかな寒気を覚える。「チッ……チッ……」足もとばかりに目が落ち、擦りきれたサンダルと汚れた素足が視界に入る。「チッ……チッ……チクショ!」誰もいない浜辺、海面を泡立てる潮風。家まではまだ遠い。

「飲みものはいりませんか?」「ア?」突然の声に振り返る。そこには巨大な亀……5メートルはゆうに超すだろう……がこちらを向いて微笑んでいた。「なんだ、なんだ? オイ」「飲みものはいりませんか?」「うるせえ、カネなんかねえよ」「フリーサービスの試験的導入です。支払いの義務は生じません」「ナニ?」「飲みものはいりませんか? ドーゾ」

突然、亀の背中が大きく跳ねあがって開き、中から様々な缶やビンが入った冷蔵ボックスが現れた。自動販売機……自動販売亀! 観光地の中でも高級なビーチでしか目にすることはない、ハイテック自律販売マシンである。なぜこんな町はずれの砂浜に? 

亀はただ微笑み繰り返す。「飲みものはいりませんか?」「うるせえ!貰うよ」カシャン、プシューッ。ウルシマは亀の背から缶を一本取り出すと、プルタブをあげて一息にあおった。ウマイ。濃厚なサトウキビシロップと、強烈な炭酸。疲労回復効果を見込んだドリンクだろうか? なぜかラベルはついていないが、とにかくうまい。ウルシマはそのまま最後の一滴まで飲み干した。「なあ、もう一本いいかな」「ドーゾ」再び亀から缶を取りだし、喉の奥に流し込む。はじける泡の刺激にふらつく。

「オホホ、オイシソ!」「え?」真横からの声にギョッとして目をやると、そこには髪を高く結い上げた女が立っていた。にこやかな笑み。青いビキニ水着。豊満な乳房を持った美女である。ウルシマは目線をまごつかせ、胸もとと顔を交互に見つめた。「貴方、運がいいんですよ。ステキだわあ」「運が?いいって?」「エエ、これは御褒美よ。よく頑張ってきたもの、貴方」「俺が?」「さあ、飲みものはいりませんか?」「貰うよ」カシャン、プシューッ。

好意的な美女、フリーの飲み物、青く輝く空。ウルシマは近頃味わっていなかった愉快なときめきを感じていた。「ステキだわあ」「もう一本いいかな」「ドーゾ」女は笑って豊満なバストを押し付ける。海面は七色に輝き、遠くでカモメが甘く歌っている。カシャン、プシューッ。「オサシミもいかが?」「貰うよ」顔の周りを飛んでいたエビを掴まえ、口に放り込む。ウマイ!口を開けると勝手にトロが飛び込んでくる。体の一部を失った魚達が笑みながら宙を泳いでいる。「さあ、これを着て」柔らかいシルクのキモノ。真珠や金が編み込まれた美しい刺繍。

「飲みものはいりませんか?」「貰うよ」カシャン、プシューッ。ウマイ! 「ステキだわあ」「もう一本いいかな」カシャン、プシューッ。ウマイ! カシャン、プシューッ。カシャン、プシューッ。カシャン、プシューッ!「Wasshoi!」

「ア、アイエエエッ!?」振り返ったウルシマは、その場に尻を突いて叫び声をあげた。体にへばりついた海藻をシャウトとともに振るい落し、こちらに向かって歩を進める男。赤黒のニンジャ装束、燃えつくような視線、顔を覆うメンポには「忍」「殺」の2文字が鈍く光る。ニンジャである。「ニンジャ、ニンジャナンデ!?」「ドーモ、ニンジャスレイヤーです」そのニンジャは胸の前で手を合わせ、深々とお辞儀した。意識の奥底に秘められていたニンジャ存在への恐怖が、甘い幻想をかき消していく。その恐怖は背後からの声でさらに膨れ上がった。

「ドーモ、ニンジャスレイヤー=サン、マーメイドです」「アイエエエエエ!?」おお、なんたる悪夢か! 先ほどまでドリンクを吐き出していた亀の背中がさらに大きく裂け、中から小柄な男が飛び出した! マーメイド。泡に溶けて消えた儚き異形の伝説を知っているものは、目の前のニンジャを見て目を疑うだろう。手のひらには半透明の水搔き、脇腹にはパクパクうごめくエラ、上半身といびつに繋がる下半身は、明らかに巨大バイオマグロのものではないか。ウルシマは静かに失禁した。砂にしみこむ水分!

「幻覚作用を及ぼす非合法ドリンクによってこの地を中毒者で満たし、なけなしの身銭を搾り取る。残念だがオヌシの計画は始動直後に水の泡だ。マーメイド=サン」「ええい、知った口を! まさか、貴様がここに現れるとは!」「泡沫の夢は潰えたな。貴様の体も海の泡へと変えてやろう」「黙れ!イヤーッ!」

マーメイドは背びれで器用に直立すると、跳ね上がりニンジャスレイヤーへと襲い掛かった。空中で体を反転させ、強靭な尾びれで殴り掛かる!「グワーッ!」跳ね飛ばされるニンジャスレイヤー。砂地でウケミを取り、次なる攻撃を迎え撃とうとして……いない!? 白い砂浜に見えるのは、ニンジャスレイヤー、ウルシマ、自動販売亀の姿のみ!

「アババ、アバッ……」ウルシマはさらに失禁しながら、今見た光景を反復していた。赤黒のニンジャを殴打した直後、半人半魚のニンジャは身をひるがえし、砂地に潜り込んでいったのである! 砂の中を超高速で泳ぎ回るその姿は、さながらパニックムービーのモンスターの如し。ウルシマの失禁は止まらない。

「ハッハァーッ!」「グワーッ!」二撃目! たとえニンジャスレイヤーがマーメイドを感知できても、地上に出てこない限りは攻撃できない。かつ攻撃の際は多量の砂で塵幕を張り、視界を遮っている。「ハッハァーッ! イヤーッ!」「グワーッ!」背後からの一撃! たまらず膝をつくニンジャスレイヤー。地底から響く不気味な振動。染みわたるウルシマの失禁! 「死ね! ニンジャスレイヤー=サン! 死ねぇーッ!」

「Wasshoi!!」「アバーッ!?」塵幕が収まった砂浜に立ってたのは……おお!赤黒のニンジャ、ニンジャスレイヤーである! 横倒しになったマーメイドの尾ひれはスリケンで縫い付けられている。しかし、なぜだ。「な、なぜ、俺の攻撃を読み切れたのだ……!」「知れたこと。オヌシの生臭い体臭が居場所を教えていただけだ」「バカな! 浜において魚の臭いなど目印になるはずが……!」

ニンジャスレイヤーはいかなる策略を講じたというのか。マーメイドの下半身から漂う魚臭とともに、もう一つ場所を知る手がかりとなったもの。それは「ア、アイエエエ……」いまだ止まらない、ウルシマの失禁である! 砂の奥深くまで浸透した失禁は、下を泳いだマーメイドの体にかすかなアンモニア臭をまとわせた。ニンジャスレイヤーはその微妙な異臭の濃淡をかぎ取り、襲い掛かるマーメイドの動線を瞬時に把握、迎撃したのだ! ゴウランガ! 砂地を自由自在に泳ぎ回れる機動力の高さが仇となった。

「勝負あったな、マーメイド=サン。ハイクを詠むがいい」「ク、クソーッ! クソーッ!!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」海中に逃げ込もうと這いずるマーメイド。ニンジャスレイヤーはその尾びれをつかみ、手元にたぐり寄せるが早いか縦に引き裂いた! 漂うバイオマグロの香り!「アバーッ!」「これで二本の脚ができたな。イヤーーッ!」悶えるマーメイドの頭を踏み、腰に手刀を食らわせる。一撃、二撃! 鱗と血飛沫が舞い、白い砂浜にまだらを描く。三撃!「イヤーッ!」「アバーーッ!」マーメイドの体が腰から上下にちぎれた。

「陸に上がった魚よ、あるべき場所に還してやろう! イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはビタビタ暴れる下半身を掴むと、勢いよく海上へと放り投げた。その飛距離数十メートル。なんたる強肩か! マーメイドの下半身ははるか遠くで巨大な水柱を立てた。「サヨナラ!」砂浜と海中で、ニンジャは同時に爆発四散した。舞い上がる水飛沫と砂礫を浴び、ニンジャスレイヤーは静かにザンシンした。

ウルシマは霞のかかった頭で二人のニンジャの戦いを眺めていた。そばにいたはずの美女はいつの間にか消え、サシミや輝くキモノももはや手に入らない。目の前の悪夢と先ほどの楽園、ウルシマはどちらが現実なのか考えることを拒んだ。背負っていた荷物の中、干物と粗悪なアクセサリーが、冷静になれ、とかすかに呼びかける。ウルシマは剥ぎ取るように荷物を打ち棄てると、亀の首元に縋りついた。

「もう一本いいかな」「ドリンク配布サービスは終了しました。またドーゾ」「もう一本いいかな」「ドリンク配布サービスは終了しました」「もう一本いいだろ」気がつけば浜からニンジャは消えていた。ウルシマは気づくこともなく亀に呼びかけ、激昂して甲羅を蹴り飛ばし殴りつけ、やがて再び首にすがって泣いた。老人のように顔をゆがめ嗚咽する哀れな男を横目に、ドクロめいた月は海の底へと沈んでいった。